伊藤計劃×円城塔屍者の帝国」を読み終えたけれど、伊藤計劃は読めるが円城塔は読めない、逆に、円城塔は読めるが伊藤計劃は読めないというふたりの友達がいて、なんか、談志ファンは志ん朝が嫌いで、志ん朝ファンは談志が嫌い、みたいなことをどっかで読んだけど、それと似たようなことなのかしらと思いつつ、興味深い。もちろん、談志が円城塔志ん朝伊藤計劃。ちょうおおざっぱにいえば、諧謔か正統か、みたいな。私は談志も志ん朝もどちらも聞けるし、伊藤計劃円城塔もどちらも読めるが、談志の噺を聞くときは談志のノリに合わせ、志ん朝の噺を聞くときは志ん朝のノリに合わせ、円城塔を読むときは円城塔のノリに合わせ、伊藤計劃を読むときは伊藤計劃のノリに合わせる、というだけなのだけれど、やはりいずれの場合もチューニングがずれるときがあり、まあ志ん朝の場合はそれはないけど、チューニングがずれたときは聞いてて・読んでて、うざったい。しかしまあ、こういう諧謔もそのジャンル・形式を愛すればこその照れ隠しなんだよね〜とか思って自分のなかで”そういうこと”として勝手に解釈してしまえばうざったさも薄れるし、どこまでもベタな正統派もそのジャンル・形式を愛すればこそのまっすぐさなんだよね〜とか思って自分のなかで”そういうこと”として勝手に解釈してしまえばうざったさも薄れる。薄れるだけでなくなりはしないけど。聞いてる・読んでるあいだ、ちょっとわきによけとくくらい。