ワークショップとかで見かける「アイスブレイク」ってなんだろう。緊張を解くためのちょっとした遊びみたいなことなんだったか。アイスブレイクやりますよ〜って言って文字通りアイスをブレイクしたらしらけるだろうなあ。「ファシリテーション」っていうのも、なんだったけな。なんかこういう手法群に対して微妙なうさんくささというか違和感を感じるのは、それらについてよく知らんというのもあるけれど、なにより結局のところそういう手法群って「場を支配し自分の意図する方向に誘導する」ためのものなんだよね、たぶん、と思うからだと思う。あと、「ノリの悪い」やつに合わせていたらなにも進まないという問題があり、そこいらの問題はおそらくスルーされるんだろうなあ。仕方のないことではあるけれど。でもまあよく考えたら、なにかしらの「目的」のある場において、限られた時間の中でなるべくブレずに目的を達成したいというのは当たり前のことなので、そのためにはある程度、場を誘導したいというのは分かるし、別にいいんじゃないかと思う。でもなあ、やっぱりどうしても、3人以上の「目的ある」場での、場の力学というか、パワーバランスというかパワーゲームみたいなやりとり、あるいはノリの発生と強制みたいなのは、苦手ではある。演じてる感・演じさせられてる感がすごいというか。ともかくも「演じる」ことが苦手なんだと思う。これはたいへん興味深いことだ。しかし苦手だからといって、「演じる」ことは「本当の自分じゃない」っていうことでもなくて、得意な役、不得意な役があるってことかもしれない。そもそも「演じる」ことからは逃れられない。他の誰かと関わる限り(誰かには自分も含まれるかもしれないし)、常になにかしら演じていないといけないわけだけれど、その時にどうにも苦手な役回りってものがある、ということかもしれん。と書いたあと、フェイスブックに、さっき書いたはてなダイアリーにつけ加えるならば、なにかしらの状況のなか、唐突に(自分で決めたわけではない)「役回り」(振る舞い方、あるいはキャラ?)を割り当てられても、対応がむずかしい。なんというか、このような対応をすることも「空気を読む」という言葉・概念のなかに含まれているのだろう。あとは、なにかしらの「目的」のある場には、必ず「その場において理想とされる振る舞い方あるいは役回り」というようなものがあって(想定されていて)、あの手この手でそれをソフトにしかし強引に押しつけられている感じがする。ほいでも「目的」がある以上、それも仕方のないことだと思う。となると「目的」のない場なら大丈夫かといえばそうでもなくて、この前かんがえていて思ったのだけど、各人に共有されているような明確な「目的」のない場においても、役回りやノリの押しつけは発生する。なぜならば、目的がないように見えて目的がないことなどほとんどないからで、つまり、明確な目的のなさそうな場においては、場のコミュニケーションを円滑に行いしらけさせないことこそが目的になっているわけで、そういう場合の方が、空気・ノリの押しつけはひどいかもしれない。と書いた。