「常識」とか「普通」とか「当たり前」とか「真っ当」とかのマジックワード、言い換えると、その言葉を発する人が自分の言う意味での使い方こそが正しいとなぜだか確信して使ってしまう言葉、に並ぶものとして「合理的」があるように思うけれど、「合理的」という言葉を使う、あるいはそのような行動様式を採用する際、「なにかしらの物事や行為が合理的であるかどうか」と、「人間は合理的でなければならないかどうか」が別の問題だということが、まったく区別されていないのが気になる。なにを言いたいかというと、なにかしらの物事や行為が合理的かどうかは、ある程度「誰が見てもそうである」ふうに決めることができるであろうけれども、かといってそのことによって「すべての人間は合理的でなければならない」というわけでもないので、「合理的」「合理性」の名の元に、他人に「合理的であること」あるいは「合理的であろうとすること」を強制するのは正当化できるのかしらなと。もちろん各人が最大限に合理的であることによって、各人の総和である「みんな」の幸福や利益も最大化するであろうから、[みんな」は各人に合理的であることを強制できる、という論理もありえるけれども、まず第一に、合理的であることは幸福や利益を最大化するのかどうかを詰めないといけないのと、第二に、行動様式を自分で決めることができない、または行動様式を強制されるのは不自由だと思われるので、各人の総和である「みんな」の幸福や利益を多少は犠牲にしたとしても個人の自由を尊重してほしいという立場からすれば、さっきの論理は論理としてはありだと思うけれど、立場や考え方としては残念ながら受け入れられない。まあそもそも、各人の総和である「みんな」っていったいなんだよ、そんな実体のないものにどうやって従うのか、なぜ従わないといけないのか、という突っ込みもあるといえばあるだろうし。