稲葉 振一郎「モダンのクールダウン―片隅の啓蒙」を読み始め、1章を読み終わりましたが、いつものことながら、語り口が非常に分かりやすいです。いまんとこ言ってることもそう難しくはないけれども、新鮮な視点でありました。さっき読んだ1章の内容とはあまり関係はないかもしれないけれども、「いまの世をどうにかせんと!」とか、あるいはいわゆる「啓蒙」的なもろもろから、エリート主義というか、エリート的感性をなくすことができるのかどうかは気になる。いまんとこの自分なりの結論としては無理だと思う。なにかしらの現状を否定する限り、それを肯定する(とされる)大衆をも否定せざるをえない。もっとやっかいなのは、大衆(社会)への関心がそもそもなく、つまり「啓蒙」という方向がはじめからなく、"意識の高い"エリート(という言葉がアレだったらば、動機を持つ者)たちだけで固まって集団自己啓発している状態は、階級社会となにが違うのかという・・。という文章をフェイスブック上で書いて投稿しようかどうか迷ってちょっと気が引けてこちらに投稿・・。空気を読んでしまったのか、空気というか、なにものかの顔色というか・・。エリートと大衆、前衛と後衛みたいなもんって、なかなか根深い問題であるような気がします。あと「階級社会」といっても、その良し悪しを考え直すのもそれはそれでまた一興。なんにしろなにが気持ち悪いかというと、意識の高い者・動機のある者がそうでない者に説教したり怒り出したり嫌味を言い出したりするのがなぜかさっぱり分からない。もちろん、個人(あるいは集団でも)で黙々と他人にごちゃごちゃ言うことなく活動している人もいる。しかし「意識の高さ」をアピールするために、相対的に自分より意識の低そうな人たちを攻撃するのにエネルギーを費やす人もたくさんいる。これは「プロ志向」のややこしさと似ている。「プロ志向」は「志向」の方向がけしからんと「アマ志向」を攻撃することで「アマ以上プロ未満」というあやふやな自分の立ち位置を正当化しようとすることがある。他人のスタンス、立ち位置の設定が気にかかる、というのはたしかにあるだろうけれども。「プロ志向」のアマいじめは本気度アピールのひとつでもあるな。でも本気度なんてこちらとしてはどうでもよかったりする。あとそもそも「プロ志向」に文句言ってもなんの意味もなさそうではある。あと、広い意味での「ものづくり」(「クリエイティブなこと」でもいいが)をやっています、という自己像というか自己同一化の種類・パターンってちょっとややこしい。やっぱり「ものづくり」してない人とは話が合わないのよね、みたいなことを言い出したりする・・。なんのためにこのようなことを言わなければならないのだろう。あちら側とこちら側が分かれてないとなにか困るのだろうか。そもそも話が合わないのは「ものづくり」だけのせいなのか。さらにそもそもいえば、自分に興味のある範囲でしか他人に興味がないというだけのことではないのか。それはそれでいいではないかとは思うけれど、あえてあちらとこちらの区別を強調しだすのが、なんかひっかかる。そのへんの違和感は、いまってなにをやってもすべての所作は自分の立ち位置を表すパフォーマンスになってしまうのではないかなーという疑問につながってくるし、自分もその雰囲気にのっかってしまっている、のっからざるをえないと感じてしまっている、感じがある。こういうのが社会学でいう再帰性というものかもしれないけど。自分の振るまいがすべて、他人にとって自分がどう現れるか(≒見えるか)の問題としてはねかえってくることを前提に振るまわないといけなくなる、という意味で。