昨日は昼間ちょうどNHKをつけていて、高校講座だかなんだかでメディアについてなんたらやったか、とにかく高校生がなにかをつくっていた。ウェブサイトやったか。ピリンピン、ピリンピン、という音がして、緊急地震速報とのことだったが、最初は番組内でのなにかかと思った。テレビというか、マスメディアって、いま自分にとっては主にツイッターとテレビだが、なんらかの事象をものすごく広く共有することができる反面、共有してしまう、という怖さもある。共有というか、同調というか。自分の目の前に危険がなくても、テレビやツイッターによって、どこか別の場所の目の前に危険がある状態に同調してしまう。自分がすぐになにか手助けできる状況にない場合、その同調にはマイナスの意味しかないというか、誰の得にもならない気がする。できることはやらんといかんけれども、やはりできんことまでやろうとして迷惑をかけるのはちょっとなあ。とはいえ、いろんな「できること」を考え出すのは意味があるだろなあ。今日は自治会の理事会。のあと、なぜか弁当とお茶とビールが配られだしたのでなにかと思っていたら、慰労会とのこと。しかし、フロートでの図書室の日に行かないといけないのでおいとまし、しかし弁当は家で食べる。阪神バスに乗り、阪神電車で西九条へ。その間、アルバート・ラズロ・バラバシ「新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く」を読みつつ移動するも、この本の原題は「LINKED―The New Science of Net works」なんですけれども、なぜこのタイトルになったのだろうと思いつつ、稲田和浩・守田梢路「ザ・前座修業―5人の落語家が語る」は昨日読み始めて昨日読み終えた。語る5人の落語家は、柳家小三治三遊亭円丈林家正蔵春風亭昇太立川志らく。たしかになんだかバランスのとれた人選のような気もした、読み終えて。竹沢尚一郎「社会とは何か―システムからプロセスへ」はいつやったか、一昨日くらいか、読み終えた。思想地図βはぼちぼち読み進め中。東京ビジネスホテル滞在中に読んだ宇野常寛「郊外文学論――東京から遠く離れて」は面白かったな。あと、東京にいるときに思ったことだが、東京の人は標準語ではなく東京弁なんだなと。例があげずらいが。帰りの羽田までのバスの通路はさんで隣のおばさま二人組がずっと他愛もない会話をしていたのだけれども、どちらのおばさまもやたら「〜さぁ」を使う。私がさぁ、小学生の頃さぁ、試写会かなんかでさぁ、萩原健一ショーケンを見に行ってさぁ、学校でショーケンに会ったって言うとさぁ、ええ!欽ちゃんに会ったの!いいなあ!とか言われてさぁ、とか、とにかく「〜さぁ」を使うさぁ。おばさまはとくにそうだったような気がするさぁ。「〜さぁ」と「〜なわけ」はおばさまあるいはアラフォーさんたちがよく言っていたような。あと、伊丹空港や新大阪や新神戸エスカレーターでみんなが右に乗っているのを見ると、大阪だ、と思う。新神戸は兵庫か。ツイッターを見る限り、ツイッターをやっている東京の友達はみな無事のようでよかった。ツイッターをやってない友達も無事の模様。東京以北、東北・北陸については、友達や知り合いがいないのでやはりどうしても身近に感じにくいが、いやちあき君の実家がいわきだな・・、しかし感じるかどうかとは無関係になんにしろものすごく大変であることに変わりはない。あと地震とはぜんぜん関係ない出来事により思ったことだけれども、弱い立場の人に優しいというのは大変に良いことであるが、弱い立場の人に優しい人って、弱い立場の人に優しくない人に対して優しいかどうかも重要な気がする。弱い立場の人に優しくない、あるいは、できない、という状態を許容するかどうか、というか。なんちゅうか、このへん許容しない人が多い気もするけれども。弱者の側に立つことと、弱者と同一化することは違うので、弱者を擁護することと、弱者を排除する者を排除しないこと、は矛盾しないんじゃないかしらな。あとなんというか、みんな「良い子」になろうとしすぎな感じもしなくもない。その気持ちもたいへんよく分かるけれども。褒められ、認められ、受け入れられるからな。今までもこんなに世の中「良い子」だらけだったんだろうか。はるか昔もそうだったんだろうか。