岡山で知り合った、厳密には、岡山の「かじこ」で蛇谷さんがスカイプミーティングしているときに知り合った、ゆえに実際に会ったことはないが、柳川さんがツイッターをやめているっぽい。新年明けて気づいたらいなかった。面白いツイートをするひとだったので残念だが、それで柳川さんの面白さがなくなるわけではないので、そういう意味ではぜんぜん残念ではない。むしろこれからどこかで出会ったときの期待がふくらむ。なんちゅうか、ツイッターやめちゃうのはわかるなと思うのは、どういうことだろうと、日課の武雄温泉の湯船につかりながら考えてみたところ、ネットに何を期待しているんだろなということに考えがうつっていって、たとえば朝起きてメールソフトなりはてなアンテナなりツイッターなりを見るとき、どういう気持ちかというと、「今日も世界が更新されているかどうか確かめる」気持ちだな。それを期待している。ホームページ、掲示板、ブログ、ツイッターと、どんどん「世界の更新」が可視化されている気がする(ネット以外だと、御触書とか掲示板とか回覧板とか、あとは新聞、ラジオ、テレビとかか)。ツイッターなんてタイムラインの流れ、すなわち「世界の更新」だし。とはいえ、そこでみえる(更新され続けている)「世界」はテレビのなかの世界と同じで、その現実性になにか確固たる根拠があるわけでもない、ようにも思える。とはいえ、どこが、なにが「現実の世界」か、というのは、かなり微妙な問題になっていて、たとえば、「目に見える」というような言葉で表現されるような「物理世界」を現実だと考えることにメリットがある人とない人がいるということであるけれども、幸いにも自分自身はどちらも現実であると考えるメリットがある。そういう意味で、ツイッターって拡張現実だよね、とつぶやいたことがあり、ネット世界が更新され続けていることが手軽にわかるという意味で、言い換えれば、物理世界の更新=時間の経過にネット世界の更新=時間の経過がレイヤーされている、という意味で、拡張現実だよなあと思った。ツイッターって。最初の問いに関しては、ツイッターやめちゃうのはわかるなと思うのは、たぶんなにに現実性を感じるかが、その都度すこしづつ行ったり来たり揺らいでいるからだと思われる。あとは、人間の持っている力、他人に対する力、には、腕力と権力のふたつがあるよな、自分はどっちもないな、と腕力のありそうな高校生くらいの若者を見て思った。まあ腕力にも、物理的腕力と知的腕力があるが、まあこれもどっちも持ち合わせてないな。