テッド・チャンの「あなたの人生の物語」という短編集を読了。「地獄とは神の不在なり」がともかくよかった。

 ゆえに、数分後、ついにニールが失血死したとき、彼は真に救済されるに値する資格を得た。
 しかし、ともかく、神はニールを地獄へ落とした。

ともかく、という言い回しがよい。自然災害っぽい。帰りに西北のガーデンズの方のロータリーにいたベビーカステラ屋さんでベビーカステラ25個500円を買う。おそうまでたいへんですねぇ、と言ってみると、いやいやこれで食ってますからね、これからが寒くなって大変やけどね。とのこと。35から40くらいの男性だった。こういうベビーカステラ屋さんにしては若い気がした。本人がどう思っているかは分からないが、つまり、この仕事を好きでやっている、とか、やりたくてやっている、とか、そういうのは分からないが、ともかく、この人はベビーカステラ屋さんが板についていた。違和感がなかった。そう感じた理由ははっきりとは分からない。コンピュータースープの新譜を買ってみようと思うが、タワレコとかじゃなくネットかなんかで直接買った方が嬉しいのだろうか。そりゃ嬉しかろうな。10掛けで売れるわけだから。とここまでは、27日に書いた分。今日ヌーのタワレコに行ってみたが、コンピュータースープなかった。と思ったら、どうやらデータ配信とカセットでの限定リリースのみっぽい。いやたしかにいまCDコンポとかないからちょうどいいかも。CD買ってもデータで取り込んでパソコンから流して聞いてるし。それかアイポッド。しかしデータはどういうふうに買えばよいのか。アイチューンズの登録はたしか親父のになってたはず、まだ。アマゾンにも売ってるな。カードないけど買えるのか?代引き?とここまでがたぶん28日に書いた分。Computer Soup「OLDNEO」はセブンイレブンでアイチューンズカードだかなんだかそういうのを買って、アイチューンズでダウンロードした。そしてアイチューンズストアを徘徊していて気づいたのだけれど、データで買うのなら12インチでしか出てないやつも買えるじゃん!というのがいちばんの驚き。喜んで追加のアイチューンズカードを買いに行き、前々から気になっていたSISのシングルやらEPやらを買ってみる。あと試聴してみてよかったフランスのレーベルの人のEP。Cellule Eat「Froggie's Wurste EP」。フランスだと思っていたらドイツっぽい。minibar。しかしSISの「lora」っていうEPは「linda」と「lora」の2曲入りなのだけれど、「linda」が「lora」とまったく同じデータだったので、違う曲名でまったく同じデータだったので、アイチューンズに苦情を入れる。こういうのどうするんだろな。アップしてるのはおそらくレーベルだろうし、アイチューンズとレーベルを仲介する人とかいるのかもしれないが、ちゃんとデータをアップしなおして、こっちにも送ってくれるんだろうか。できない気もする。アイチューンズがデータをどう管理しているか知らんけれど、とにかく膨大なのは確かだし、アップされている楽曲の責任はいちおうアイチューンズストアが持っているようだけれども、実際の修正作業は誰がするのか分からんし、そもそもその誰かにちゃんと指示が届くのかもよく分からん。申し出を受け付けました、という自動送信メールは来たけども。それで終わりな気がしなくもない。ここから先はたしか27日に書いた分に追記できるのかできないのか。しかしパン屋とかケーキ屋とかに行くといつも思うのだが、パン屋とかケーキ屋って、雑誌とかテレビに取り上げられるようなスターパン職人・スターパティシエがいる一方、地方のそのまた地方で地元の人々の需要を満たし続けているパン屋やケーキ屋もあるのが面白い。「お取り寄せ」が盛んだとはいえ、鮮度が必要なもののローカルな需要はなくならない。建築もそういうところがあると思う。スター建築家・スター建築家集団がいる一方、地方のそのまた地方で地元の需要を満たし続けている建築事務所や工務店とか大工さんもいるのは面白い。グラフィックデザインも近いのかしら。おそらくすこし違うけど。いっぽう、アートや音楽はどうか。複製によって流通させることが容易で、それゆえメディアにも載せやすいこれらはどうなのか。音楽に限って言えば、ケーキを食べたいから近所のケーキ屋さんに買いに行こう、みたいに、音楽聞きたいから地元のライブハウスに行こう、なんてことはほぼ確実にないな。音楽に関しては、「誰々の」音楽を聞くわけだし。あ、そうか。「誰々の」より「何々」の方が重要なものと、「何々」より「誰々の」の方が重要なものとの違いか。当該の情報を得る時にでっかいメディアを介するか否かの違いかとも思ったけれども。あとは需要の始まりの種類が違うか。「機能的・物理的・身体的な必要」か「心理的・精神的・抽象的な必要」か、というか。どっちもある「必要」ではあるけれど、性質が違う気がする。ケーキを食べたい、家を建てたいのと、音楽を聞きたい、絵を見たい、のとは、どうも違う気がする。あと、こういう構図って、あるジャンル・カテゴリーにおける「中央・都市の専門的状況や流行」と「地方・田舎の必要」だとか、みたいなやつって、どっちかを下げてどっちかを上がっているように見せたり、それでなければどっちかを上げようとしたり、するのが常だけれども、まあやはり両極を繋げられたらより面白いかなと当方も思う。去年くらいから気になっていることがあって、たとえば音楽をしたいとかアートをしたいとかいうとき、やはり都会に出て行くわけで、少なくとも人がたくさんいそうな方に行くわけで、そういうスタイルとは別の、地元のケーキ屋・地元の喫茶店みたいな、大して期待もされないがまあそれなりに地元の需要を満たし続けている、というようなスタイルはあり得ないのかなと、都会でプロを目指して活動したり、TOKYOを目指したり、する人を見て、思うが、あり得ない気もする。よくて、都会の文化を田舎に輸入することくらいか。まあ仕事としてなら成り立つ可能性はあるけれども、たとえば絵なら挿絵とかイラストとか、音楽なら映像がらみとか。しかし、鑑賞、というか、それ自体が目的のものとして地元の需要を満たし続ける、というのは、ちょっとまだイメージがしにくいな。お稽古事ならまだしも。地方で現代アート、みたいな、現代アートはこんなに楽しいんだよ!どうですか?初めての現代アートは?あなたにもできるんですよ!っていう感じはちょくちょくあるが、なんというかそれも、みる側の需要というより、やる側がやる場所がなくなって地方に拡散しているだけだったりもするだろうし、まあ需要は気にする必要はなかろうが、やはり都会と田舎の文化の違い、格差というよりも、はあるわけで、それを「楽しさ」で乗り切るのは無理がある。いや「楽しさ」はあるにこしたことはないし、それだけで無理矢理乗り切ろうとしているわけではないな。でも、どうしても「楽しいよ」で押し切ってしまったりしそうだ、もし自分にお鉢が回ってきたら。面倒になって。もしの話だけども。「楽しさ」にもいろいろあるだろし。そこが微妙なとこだ。あとはいまなら「旅行」で都会と田舎の文化の違いを埋めている感じ。いや、たとえば、アートは普遍です、という、そもそも都会と田舎の文化の違いなど存在しないか、したとしても表面上の些細なものでしかない、っていう言い方も理念というか言葉の意味としては成り立ちはするが、具体的にどう実現するかの話がむずかしい。いまなら、テレビのやり方とか、インターネットのやり方を借りることになるだろう。それらは都市も田舎もあまり関係なく通用する。いや、どうなんやろ。