梅田マルビルのとこからバスに乗る。後ろの席から九州なまり、佐賀なまりが聞こえてくる。行きとおんなじ席やった。おまえはあそこ(バス乗り場向かいのヒルトン)泊まらんとや?いやここは高かでしょう、など。ビジネスマン二人組。といっても片方はオールバックにピンストライプのスーツ、余分な部分を剃って整えた尖った眉毛の四十代という趣のおっさんヤンキービジネスマン。しかしサラリーマンとかビジネスマンとかいうても、結局その人がどういう人か言い表していないのはもちろんのこと、なんやろ、第二ビルのとこに人が並んでいる。パチンコがあったっぽいがパチンコなのか。なんなのか。ごく最近になって気づいたが、接客業というかサービス業、広い意味でいえば対面・非対面含む人と人のコミュニケーション全般とも考えられるけど、当の状況によって割り当てられた役割を演じきれるかどうかの問題なんだな、そうかそうか。素に戻らずに演じきれるかどうか。または素も演技のひとつとして取り込めるかどうか。そう考えてみると、コミュニケーションの演技性に馴染めない人が対面・非対面含むコミュニケーション全般から撤退していくのも、分からなくはない。場の空気とかノリとかって、状況が個々の人間・演技者に要請する役割のことっぽい。状況に埋め込まれた役割間の関係というか。明日は友達の結婚式だけれども、新郎の友人という役を最後まで演じきれるかどうか。というか、結婚式という状況に合った振る舞いを台本に沿って最後まで維持できるかどうかか。式に始まり、披露宴、二次会から三次会・・。対応できて二次会までか。役を無視する手もあるが、無視しきるのもまた難しい。状況が求める役割に対する感覚が優れたやつって小学校からいたな。大人だなーと思ってうらやましかったな。今回の新郎もそのひとりだな。「だな」って打つとこの携帯は予測変換で「DKNY」を出してくるんだな。新婦も知らないわけではないが、話したことはない。ツイッターって、なんかわからんけど、格言というかアフォリズム的なことをつぶやきがちになるのか、なんなのか。わりと多い気がする。誰かがつぶやいた警句的なことが脈絡なく突然タイムラインに現れる。読んで、ほうなるほどと思うし、嫌というわけでもないが、なんでかなとも思う。たぶん、そういうことを伝えたいというよりも、それも多少はあるとは思うが、自分自身に言っているっぽい。言霊とか??あとは、自分で書いたことを自分で見て改めて取り込むというか。ブログもそうだけど、「鏡」みたいなところがある。ブログやツイッターが、というより、文字を書く、文章を書く、ということ自体に、「鏡」のような性質がある。