伊藤計劃「ハーモニー」は昨日の帰りのバスで読み始めて風呂で読了。藤本壮介「建築が生まれるとき」は寝る前に読了。円城塔「Self-Reference ENGINE」はさっき読了。サッカーを見ながら読んで、カリオストロを見ながら読んでいたら寝てしまった。エリカなんちゃらさんの「パフォーマンスの美学」には以前の持ち主の痕跡が挟まっていた。以前の持ち主はアマゾンで買ったらしい。今年の4/25に注文している。珍しい苗字と珍しくもない名前。検索してみると、三年前に絵かなんかのコンペに入賞したことが分かったが、それ以上は分からないし、そもそもエリカなんちゃらさんの本を4/25にアマゾンで注文した人物と同一人物かどうか分からない。だから名前は名前だけでは個人情報じゃないと思う。名前は情報と人物のリンクのように見えるけれど、情報と人物の関係(リンク)の外からその関係を保証されてやっと成り立っているので(「この文脈で使う小田寛一郎という記号はどの小田寛一郎を指すか」という情報)、その保証がなければ、名前は、誰とどの情報の繋がりを指示する記号か誰にも分からない。だから名前はそれだけでは、人物と情報の関係の存在をほのめかすだけで、その人物がいるということを証明するわけではないし、誰かに関する情報があるということを証明するものでもない。だから名前は名前だけでは個人情報じゃないと思われる。