mogubookのサトウさんが、こういう企画を。→http://mogubook.net/article/158238724.html これはいいな。本っていう、情報というか知識というか知恵というか、そういうもののとっかかり、とどういうふうに出会うか、っていうのは、なにかおもしろいものがありそうだ。平間君の「Radio moumaku」(http://www.voiceblog.jp/moumaku/)に、3連続アップロードの第1弾がアップされる。「『自分を産んでくれた母親に感謝したい』という想いの込められた0.1秒の無音」というもので、完全に思いつきというか、悪ふざけの感もあるけれども、いちおうそれなりにまじめに「なんかを込めた」って言えばなんかになんのか?ということでもあって、いや、言うだけで実体がなければ、なるわけないのだけれど、じゃあその実体ってなんなのかもよく分からない。平間君が解説で言ってくれてるように「という想いの込められた」が問題なわけで、客観的に込もっているかどうかは分からないというか証明できないので、込めた側と、込めたものを受け取る側で、共通の了解が成立するかどうかが問題。成立さえすれば「込めた」ことになる。だから、共通の了解が成立するための「込めた」っぽさが重要。で、この0.1秒の無音はその「込めた」っぽさがない。「込めた」とは言っているけど。具体的に込めようとした様子すらない。「自分を産んでくれた母親に感謝する」というタイトルの「お母さん、産んでくれてありがとう」としゃべる音声があったとしても、そこにはあまり「込めた」っぽさがない。。「込めた」っぽさというのはいったいなんなのだろう。なんか、「込めた」っぽさって、「ノリ」の問題というか、集団での「ノリ」というか、みんなで集まってそういう素振りをするかどうか、みたいなことのような気がする。よなさんにイーガンの「順列都市」を借りる。