電気屋さん、工務店?の人がやってきて、エアコンを外してくれる。しきりにクリーニングを薦めてくる。一台15000円。税抜き。3台で40000円。次の家で使うのは一台だけなので、一台だけお願いする。昨日、JRで帰って六甲道で降り、通称「はーいの店」で弁当を買い、商店街を歩いていると、携帯屋さんがあり、AUの新しいの、LIGHT POOLを見てみる。光らない。模型は光らない。光るのが売りじゃないのか。おっきなお店には実物があるんだろうけれど。光るのが売りの携帯を光らない模型で売ろうとしても売れないだろー。すくなくとも光ってる写真とかないと。なにが売りか、というのと、売りが伝わりやすいか、というのはなんによらず重要なことで、たぶん美術の人とかが、やたらに見せ方見せ方いうのはこのことで、なにが面白みの中心か、その中心が伝わりやすいようになっているか、ということなのだと思う。この「中心」というのが重要で、保険というか言い訳なのだけれど、単純に「売り」とか「面白み」と言ってしまうと、あたかもなにかひとつの「売り」「面白み」しかなくて、それをいかにストレートに伝えるか、というはなしになってしまうからで、そこらへんはバランスか。多義性、多義性と口やかましく言って、とにかく曖昧に曖昧にしたとしても、結局なんのとっかかりもない、つかみどころのない、なにが中心なのか分からないことになってしまうし、かといって一義性、一義性、作者の意図、作者の意図と口やかましく言って、とにかく厳密に厳密にしたとしても、見る側の解釈の幅をコントロールするのはやっぱりむずかしい。論文みたいに、自分の立場や方法をまず詳述してからさて内容です、というふうにするしかないけど、まあそれはそれでおもしろい。そういうふうに構成する技術がいるけど、効果はあると思う。「面白み」という固定した内容を伝えるのでもなく、「面白みの中心」という程度の面白さの基盤をうまく見せる、伝える、方法はあると思うけど見当がつかない。そのケースごとに探すしかないのだろうなということくらいしか分からない。物事の整理の問題だと思う。いままでの歴史のなかで形式としてすでに整理されているものについては、さほど考える必要はないけど、とはいえ考えなくても済むというものでもなかったりする。暑すぎる。キッチン以外のエアコンはすでに取り外された。キッチンのはもともとついていたやつなので、つけっぱなしでよい。偶然だけれど、今日の作業はキッチンの片付けなので、ちょうどよかった。だいたい済んだか。まあ大丈夫そうだ。