昼間にブックオフオンラインからの荷物を受け取る。掃除をする。「20世紀SF6 1990年代 遺伝子戦争」のなかの、グレッグ・イーガン「しあわせの理由」。短いのでさっと読める。なんというか、この人の場合、スリルとかサスペンスみたいなのがそんなにないやつの方がより面白い気がする。なので、「しあわせの理由」は面白いと思った。稲葉振一郎社会学入門“多元化する時代”をどう捉えるか」の1の1?なんかマリオみたいだが、「社会学の理論はどのようなものか 理論はなぜ必要か─共通理論なき社会学」。借りたのをツタヤに返しに行く。あらたに借りようと思い、前回と同じく枝雀と志ん朝をカウンターに持っていくがカードを忘れました。カードがないと借りれません。1時間くらいならお取り置きいたしますが。じゃあ、お願いします、またすぐ来ます。いま19時5分なので20時くらいまでに来てください、とのこと。自転車に乗りかけて、やはりまた来るのは面倒なので、店に入りカウンターに行くとさっきの店員さんがこちらを背にして立っていたのですいませんと声をかけたが電話中だったので、カウンター前に並んで自分の番を待つ。夕飯は姉ちゃんが三宮から買ってきたひょうたんのギョーザ。辛めのみそで食うやつ。ツタヤの落語の棚のまえでなにを借りるか悩んでいるときに気づいたのだが、なぜ安心して落語に興味を持てるかというと、落語という範囲が決まっているからだ。なんというか、噺家によって構成される落語世界が有限であることが目に見えるからというか。私が触れうるのは基本的にCDが出ている人だけで、そのなかでもあるていど名人として名のある人だけだと思う。それ以上には興味がいかないので、いまのところは安心。なにより、落語は型があるから輪郭がはっきりしている。有限。もし仮に、誰でも噺家であり型と無関係にはなしが面白ければなんでも落語である、みたいなことになれば、不安で落語になんて興味が持てないと思う。細かくいえば有限だろうが感覚的に無限だから。不安というか、誰でも噺家であり型と無関係にはなしが面白ければなんでも落語である、というふうになってしまったなら、そもそも噺家の落語を聞く必要がなくなるというか、落語と非落語の違いがなくなるので、落語も非落語も共にいらなくなる。選ぶとっかかりがなくなる。面白いはなし、だけが残る。さてではその面白いという感覚はなにか。というふうに考えるのは面白いのだけれど、個別の面白いはなしにはあまり興味がなくなるというか、単に個別の面白いはなしがバラバラに落っこちているだけなので、選ぶとっかかりがなくなって、どれを選べばよいのやらさっぱり分からなくなる。どれもそれぞれにそれぞれの論理において面白いとしたうえで、なおかつそのどれもが互いに関連付けられることを拒むとすれば、さらにとっかかりがなくなって、どうしようもない。かといって、型のなかで名声競争や出世競争をされても、ぜんぜん興味が持てない。すそ上げをしてないズボンが3つあって、ロールアップしてはいてるからいいのだけれど、とはいえすそ上げはした方がいいと思う。