19日より佐賀。なんとなく、田舎が都会化している気がしてきた。環境というか、物理的にではなくて、人々の感覚として。そういう感覚の変化に続いて、都会的なモノとかコトとかが入ってくるのかしら。というふうに考えると、変化の始まりはかなり前になるのか。うーむ、現状の田舎でもすでに田舎的な都会化は十分に達成されている気がする。都会の都会化は隙間がなくなるが、田舎の都会化は隙間が無視されるようになる。それに、おそらく都会化は避けられないので、それにどう対応するかなんだろうなと思う。幸か不幸か私は、都会人じゃないし、かといって、田舎人でもない中途半端な感じなので、都会とか田舎とかじゃないふうに考えられたりするのかなと思ってみたりもするが、どっちかというと都会人だと思う。あと、「観光」には原理的な矛盾があるような気がする。自分のとこに、異国(隣町とか隣県とか都会とか外国とか)の人に来てもらって、お金を使ってもらうのが観光だと思うのだけれど、その前提には「〜らしさ」がある。「〜らしさ」ってたぶん、伝統・歴史か、地理の特性、のふたつしかないわけで、後者は技術によって均質化されていくので、やはり強いのは伝統・歴史。とはいえ、伝統・歴史というものは、技術や知識の集積というよりも、ノスタルジーの対象になることが多いので、そこが困りもの。いや別に困らないけど、ノスタルジーという感情・感傷は考える土台にはならない気がするというだけ。伝統・歴史を利用して、現在を相対化したり、現在に対する別の案を考えてみるのが面白いと思う。「〜らしさ」ってたぶん、伝統・歴史か、地理の特性、のふたつしかないわけで、というのは人間の「〜らしさ」にも当てはまる気がしないでもない。記憶か環境のふたつしか「らしさ」を形成する要素はない、というように。そのうちの記憶とか希望とかの占める部分については、ほとんど信用していないのだけれど、だからといって環境そのものに干渉できないとは思わないが、将来どうなりたいか、とか近い将来のビジョンとか、そういうのはやっぱりまったくない。ずっと前からない。なんなら子供の頃からない。その都度の興味と、その都度の環境からの影響しかない。あと、いまでいう「仕事」ってもはや価値とかなんとかの生産ではなくて、直接的な自己啓発か、環境への干渉を通した間接的な自己啓発か、でしかない気がする。もともとそういう側面もあったのだろうけど、そこしかないようになってきている感じがする。自己啓発のついでになんか適当な価値を生産する、みたいな。仕事と自己啓発が結びつくと生産性が上がるので、そこを利用している企業とか人とか、たくさんあるような感じ。自己啓発というか、単純極まりない構造の「信仰」というか。宗教はもっと複雑だと思う。自分の信仰を疑うことも入るし。なんかこう社会全体というか、現代の人間に共通する心性が自己愛性人格障害的だから、そうなるのかしらとも思ったりする。仕事を頑張る→認められる→おれはえらい→おれはおれを愛す、みたいなことなのかしら?