「なんでもかえっこ会」、欲しいもの・いらないものがtwitterに投稿されています。http://twitter.com/floatPark これはtwitterやってなくてもメールを送れば投稿できるのかしら。なんかあるかなー、いらんもの。冷蔵庫とこたつがあったかもしれないが、FLOATもしくは交換相手のところにまで持って行くのがちょっとしんどい。橋爪大三郎「世界が分かる宗教社会学入門」は昨日、一昨日か、読了。ひきつづき、岡田暁生「音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉」 。ブックオフオンラインにて、エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」、中村圭志「信じない人のための「宗教」講義」。ジュンク堂の三宮で、土井隆義「「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える」、野矢茂樹「入門!論理学」。トリトンカフェで大学時代の友人ヨシノブの展示。ヨシノブは本名ではなく苗字と名前を合成したもの。フェルトでつくった動物たち。だんだん商売としても成り立っていってるっぽい。このまえNHKにも出てたな。いいことだ。ヨシノブの友人で動物(園)好きの方がやってきて、動物のはなしをする。さすがに二人とも詳しい。おー、なんて雑誌かは忘れてしまったが、とある建築の雑誌の創刊号をジュンク堂の5階で見かけて、900円くらいのわりと手作りっぽい感じの。テーマは「建築に何ができるか」みたいなことだったが、これもうろ覚えでこのワードで検索しても原広司さんの話題しか出てこない。まあいいけれど、いちばん最初の伊東豊雄さんの短い文章と、いちばん最後の鷲田清一さんの短い文章がとても面白かったが、細かいところまでは覚えていない。伊東さんのは建築家の私的な想像力と建築というものの公共的な性質の関係のことだと理解した。鷲田さんのは、なんか手伝おうか?と問いかける町の大工さんのような存在は建築家と呼ばないのか、というようなものだったような。芸術でもアートでも音楽でもなんでもいいけれど、そういう類のもの一般について大きな違和感としてあるのが、私的な感覚なり想像力なり動機なり反応なりと、それを実際に事に起こしたとき、つまり誰にでも見え聞こえ読め触れ嗅げるものとして表したときに必ず帯びる公共的な性質、との関係があんまり意識されていないというか、私的な想像力が発表という制度を通ればそれだけで公共的な利益を持つであろう(ないしはもう少し謙虚に、持ち得るであろう、でもいいけど)と簡単に信じられていることが、ものすごく気持ち悪い。