いま、失業者に対して「仕事を選んでいるから仕事がないのだ」という非難はものすごく広く人々のなかで共有されているが、では逆に、あなたが仕事を選べない状況になったとしてそれを甘んじて受け入れる心の準備があるのか、と問いたい。というか、いまのあなたがなに不自由なく仕事をしていられるのは、幸運にも、あなたが自分に合った仕事を選べる状況にあったからだ。というのの、7割くらいは湯浅誠「どんとこい!貧困」の受け売り。「自分に合った」というとき、職種や興味とは別にもうひとつ大きな要因があって、それは職場の人間関係だと思う。むしろこっちの方が大きい。人間の能力を生かすも殺すも、能力を発揮する環境=職場の人間関係で決まるんじゃないかと思う。不適切な負荷=ストレスのなかでは人間は能力を発揮できない。この問題は、個々のコミュニケーションスキルの問題にすりかえられてしまって、「関係」という環境の問題だと認識されていないような気がする。個々の問題ではなく、関係の設計の問題なのに。


本を読んでいるときに知り合いに会ったら、いま読んでいるのは何の本なのか、というはなしになりやすいのだけれど、それで、ベーシック・インカムについての本だと答えると、なんですか、それ?となる。私自身、なんですか、それ?という気持ちで読んでいるので、明確に答えることがまだできないのだが、いちおう、無条件に個人単位で全ての人の生活をなんらかのかたちで保障するものだ、たとえば毎月10万円づつ支給するとか、というようなことを答える。すると、財源はどうするんですか?と必ず、必ず聞かれる。私自身、財源はどうするんですか?という気持ちで読んでいるので、明確に答えることがまだできない。知っている範囲での答えを整理してみる。以下、山森亮ベーシック・インカム入門」やベーシックインカム・実現を探る会のサイトなどを参考にした。■1、所得控除、年金、児童手当、生活保護、失業給付を廃止してある程度の財源を確保し、さらにベーシック・インカム以外の所得に定率で所得税をかける。BI/FT(Basic Income/Flat Tax、ベーシック・インカム/定率所得税)ということらしい。もちろん、所得がなければ税金は0。賃仕事をするなりなんなりしてベーシック・インカムに個々に上乗せされる所得への課税。BI/FTでは高所得者層は多くの国で現行制度より減税されてしまうので、より再分配を重視した立場として、ベーシック・インカム/累進所得税という組み合わせもあるらしい。■2、所得税法人税を廃止し、経済活動に関する課税を消費税に一本化する。そこにベーシック・インカムを結びつける。■3、所得税法人税付加価値税を全廃し、新たに地価税とエネルギー税を設ける。地価税とは土地の賃貸価格(地代)に対する課税、エネルギー税とは石炭、石油、天然ガス原子力などの使用に対する課税。いずれも地球の資源から価値を引き出すことへの課税という意味合い。■4、政府による公共通貨の発行。もちろんお金の総量を増やすという単純な意味ではなくて(それだとインフレが起きることになる)、通貨システムの変革=利子付き負債をなくす、という意味。それがなぜ財源になるのかはまだ未理解。■番外としてベーシック・インカム型政策の「負の所得税」。所得税額から最低生活費相当分を控除し、もし所得税額が最低生活費を下回る場合には差額を給付する。とりあえず、このくらいか。もっとあるのか。


あと、人々が働かなくなりませんか?とも聞かれる。私自身、そうなるとは思っていないが、明確に答えることがまだできない。というか、私に聞かれても困る。しかし、すくなくとも、定期的にお金が支給されたら人々が働かなくなるのでは、という発想は、働くということを賃仕事としてしか捉えない前提に立ったものだということは言える。働く/働かないに関わらず賃金=お金がもらえるのなら働かないだろう、という。衣食住が足りれば働かなくなるだろう、という。衣・食・住とそれぞれに耐久性やコストは異なるけれども、いちばん磨耗のサイクルが早いのが食だろう。パンを食べても6時間もすれば腹がへる。だから、「食う」ために働く、という言い方が成り立つ。「働かざる者、食うべからず」。しかし、現代の「働かざる者、食うべからず」の「働く」は賃仕事のみを指している。狭い意味での賃仕事をしていなければ、働いているとは見なされない。ベーシック・インカムが面白いと思う理由のひとつに、「働く」ことの意味を問い直す作業が含まれてくることがある。ある程度、生活が保証されたとき、あなたはなにをし、どのように社会と関わっていくか?ということになる。逆に言えば、仕事だから・食うためだからしょうがない、という言い訳が通用しなくなる。こんなことやる必要あるのかと思うことを仕事だからといってムリヤリやる必要がなくなるし、ムリヤリやる理由を仕事だからしょうがないということもできなくなる。ということは、生活の必要から距離をおいて、自分と社会との関わりにおいてなにをなすべきか考え行動することができるようになる。働きやすい仕事・職場を選択できるようにもなる。これはそのまま労働条件の引き下げへの抵抗にもなる。


山森亮ベーシック・インカム入門」を読んでいたら、面白い見方があった。「第5章 人は働かなくなるか?」より。

 ガルブレイスは1958年に出版した『ゆたかな社会』で、雇用と所得保障の分離の必要性を説いた。技術革新の結果、人々の必要を満たすために投入しなくてはならない労働量および生産は減少していく。人々の必要を満たす以上に生産された財は、広告等の生産者側の働きによって人々の欲望を喚起し、消費されることになる。したがって生産は昔ほどそれ自体として重要なものではなくなっているのだが、以下の二つの理由で、いまだ重要視されているという。
 第一に、生産力がとぼしく貧困が偏在していた過去の社会の通念に人々が縛られているため、第二に、生産によって人々の雇用、ひいては所得が保障されるために、である。たしかに所得は保障されなくてはならない。しかし、そのために無理に雇用を確保しようとすることは様々な不都合をもたらす。過剰生産に需要が追い付かない危険、インフレーションの危険、労働すべきでない人を雇用へ追い込む危険などである。また技術革新を遅らせる危険もあるし、そもそも技術革新が不可逆的なものだとすれば、完全雇用の確保はかなり無理をしても難しい可能性が大である。

第一の理由はそのうちなくなりそうな気もするが、第二の理由により過剰生産をやめられなくなっている気がする。過剰生産をやめられないのは生産したものが消費されることで雇用(=賃金による購買力)が発生するから、ということなのだろうけど、これはなんか変なループを起こしている感じがする。生産したものが消費されなければ、このループは簡単に途切れてしまう。消費が減れば、賃金ないし雇用が減る。雇用が減ればさらに消費が減る。だからといって、消費を喚起すれば好循環が始まるのかというと、なんか違う気がする。そもそもこういう循環のやりかたがおかしいのかもしれない。関曠野さんの講演で言われているように、たしかに、生産したものが必ず消費され十分な所得に変わるのであれば、つまり生産と消費のギャップがなければ、この循環も成り立つのかもしれないけれど、まず技術革新によって基本的欲求が充足され、この部分においては生産(と消費)のコストが下がっていることがあり(だから相対的欲求の生産(と消費)が増える)、あとダグラスという人が言うように、労働者が生産したものの総体の価格が労働者の所得の総体をはるかに上回るのであれば、プラスの循環など起こりようがない。そして、ダグラスのA+B定理(企業の生産コストを、A(労働者への賃金=購買力)と、B(減価償却費、銀行への負債の返済、他の企業への支払い(原料費)、そのほかいろいろな外部費用)とに分けて考えること。利潤はコストではなく企業の維持費として価格に含まれるものなのでA+Bの外側にある)と、循環すなわち時間の経過と共に生産費用の中でAに対してBの比重がどんどん増えるというのは、たしかに当たっているかもしれない。時間の経過と共にBの比重が増えるというとき、いちばん大きいのは銀行からの負債がどんどん増えるから、っぽい。利子というのがそういう仕組みになっているから。いわゆる自転車操業ってやつなのか。消費をするために借金して生産しているという。『労働による所得は雇用によって生まれ、雇用は企業の投資から生まれ、投資の背景には銀行の融資がある』という。だからどうしたらいいのかなんて私にはわからないし、消費が少ないのなら少ない生産、つまりは負担・リスクの少ない(「在庫」もしくは「融資」という借金のない)生産でいいじゃん、ローリスク・ローリターンのなにがおかしいのか、とか思っていたけれど、関曠野さんの講演(http://bijp.net/transcript/article/27)を読んで、利子付き負債で経済が回っていく構造が問題なのであれば、利子付き負債をやめる、というのもアリなんだろうなと思った。