おお、せっかく書いた日記が消えた。なんかわからんがうっかりキーボードのどこかを押してしまいページが戻った。はてなダイアリーのバックアップにもなぜか56分まえのしか残っていない。日音色さんからメール。いま参加させてもらっている『日音色open企画展 「日・音・色」しおり展』での私の販売用しおりが完売したとのこと。正直、一律100円とはいえ売れると思っていなかったので、びっくりする。展示してもらっているのは、しおりがはさまれるもの(本)もすこしの操作でしおりになる、という「しおり」。どのくらい前だったか、beyerでこのしおり展のお知らせのしおり(フライヤー?)を発見して、その帰りの電車で、自分が「しおり」をつくるならどんなしおりがつくれるかな・・・と考えていたら、文庫本のページをしおりサイズに切ったらしおりになるんじゃないか、なおかつそうすることで、しおりのはさまれる本のテキストと、しおりのテキストが混ざり合って面白いかも、という思いつきを思いついて、けっこういい思いつきだとは思いつつも、そのままでは著作権的ななにやらに触れる可能性がなきにしもあらずだし、日音色さん的にはどうなのだろうか、、というのもあって、ひとまず日音色さんにメールで相談してみる。日音色さん的にはなにも問題なく、著作権的ななにやらとしては、ページを切るだけでなくあと一手間あれば、古紙をつかった作品ということで「オリジナル」なものだと言えるのではないか、ということで、しおりサイズに切り取ったページに小さな穴を開け紐を通して、より「しおり」らしく、仕上げることにする。「展示だけでなく100円で販売もする」ということで、100円で買った文庫本の100ページ目を5cm×15cmの大きさ(一般的なしおりサイズ)に切る、というルールにする。展示しているのも販売しているのもルールは同じだけれど、素材となる文庫本が違うので内容が違う。展示用=オリジナル、販売用=複製、というわけではなく、すべてオリジナルということ。最初につくった5枚のしおりのうち、どれを展示用にするのかは日音色のオーナーさんにお任せする。あと、100円でこのしおりを買うと、その元になった文庫本も「おまけ」でついてくる。というわけで、昨日は口笛文庫にて100円の文庫本を仕入れて、3枚のしおりを追加で生産。ルカーチレーニン論と、ソクラテスの弁明と、ボードレールの詩集。最初の5枚はなんだったかな、マルクス・エンゲルス共産党宣言」と武者小路実篤「友情」と西田幾多郎善の研究」とアポリネールの詩集とドストエフスキー地下室の手記」。100円の文庫本の100ページ目を見ながら自分が気になるものをセレクト。久しぶりに谷町6丁目。すこし迷いつつ日音色さんに到着。このへんは古い町並みが残っていて、生活感があって、歩いているだけで「人間の生活」を感じてなにやらほっとする。到着時、店内には3人のお客さん。壁に展示された37枚のしおりをゆっくり眺めつつお客さんが帰るのを見計らって、オーナーにごあいさつ。群馬のtonbi coffeeというコーヒー屋さんにオーダーしたという日音色オリジナルブレンド珈琲「窓-mado-」・「凪-nagi-」・「歌-uta-」のなかから、「窓」をお願いする。ハンドドリップ中、店内をうろうろする。「昭和初期に建てられた木造一軒家をほぼそのまま生かしている」とのことで、元は散髪屋さんだった空間にすこしだけ手を入れているみたい。梁や窓や入り口や床がほぼそのままで、壁を白く塗っている。床の細かいタイルがよい雰囲気を出している。入り口やら、入って右側の窓枠やら、歪んでいるが、それがまたおもしろい。いろんなところに隙間がある方がなんとなく余裕があってよい気がする。梁や柱や窓枠の濃い茶色と壁の白のコントラストもきれい。むかしの小学校の椅子みたいな木の椅子は神戸のお店で買ってきたらしい。あと、喫茶スペースの机は見たところ新品なので、オーダーしたのかなと思っていると、オーダーしてつくってもらったらしい。探してもちょうどいいのがなく値段も高かったりするので、頼んでつくってもらったとのこと。喫茶スペースの机は壁に接して設置されていて、これはオーナーさんのこだわりで、ひとりで来たときに壁に向かって座ることができるように、とのこと。これはなんか分かる気がする。あと、入って左の壁面が展示スペースなので、入って右の喫茶スペースで喫茶する人たちは展示スペースに背を向けるかたちになるのだけれど、こういうふうになることで、展示と喫茶がよい距離を保っている気がする。展示だけ見にお店に入る人もいるだろうし。展示を見るには要ドリンクオーダーというわけでもなさそうだし、その距離感がよいと思った。コーヒーは陶器の器で出てくる。ちゃんとお盆に載っていて、コーヒー以外に小さなクッキーとスプーンと岩みたいな砂糖と、よくある細長いお手拭ではない、外側が紙で内側がプラスチックのパッケージに入ったお手拭。駅弁とかにもこういうのが入っていた気がする。4、5年前まではコーヒーをブラックで飲むなんてぜったい無理だったのだけれど、美味しいコーヒーなら飲めることに気づいて、最近はブラックでも飲む。コーヒーもクッキーも美味しかった。いろいろとお話をして長居してしまい、18時ごろおいとまする。平日のプロフィール展は18時〜22時なのだけれど、19時まえにFLOAT到着。九州から2通、東京から1通、和歌山から1通、大阪から1通、プロフィールが到着していて、人数でいうと10人分のプロフィールが到着。ありがたいことだ。これで合計約80人のプロフィールが展示されることになる。ぼちぼちと貼る作業をする。だんだん貼る場所がなくなってきた。どうするかな。そうこうするうちに、アサダ君の結婚パーティとこの前の「SEE」のイベントでお会いした方がやってくる。あー、お名前を度忘れしてしまった。。人の顔は覚えるのだけれど、名前を忘れる・・。すいません。竹の皮につつまれたちまきっぽいやつと水筒に入ったお味噌汁を持ってきていて、私もいただく。うまい。肉なし、卵なし、とのこと。9月5日にFLOATであるイベントのフードをつくるらしい。なんだか分からないがはなしの流れからビールが出てくる。半分くらい飲む。残りはよなさんに託す。22時半か23時くらいやったか、おいとまする。いつも思うし、当たり前のことなんだけれど、「会話」を構成するそれぞれの話者(の構成)が変わると、会話の内容も自然と変わる。山田真茂留「〈普通〉という希望」はざっくりと再読終了。湯浅誠「どんとこい、貧困!」も読了。この2冊を同時期に読んだことでいろいろ学ぶことができた。いままでなんかおかしいよなあと思っていたことを、整理する道具立てをもらった気がする。前者から得たいちばん大きなものは、集合的カテゴリーの捉え方について。後者から得たいちばん大きなものは、自己責任論の相対化と、互いに意見を言い合うことの大切さと、「言い合うためのルール」の大切さ。ずっと気持ち悪いなと思っていたことに、一般的には、「自分の意見」と「自分の人格」が同一視されているように見えること、がある。「意見」を「表現」と言い換えてもよい。だいぶ前にも書いたけど、自分の意見や表現に反対意見が出たからといって人格まで否定されているわけでもないのに人格を否定されたかのごとく過剰な反応をしてしまったりするし、その一方で、そのような反対意見が出ることを恐れていろいろ考えていてもなかなか意見を言えなかったりもするし、逆に反対意見が出る余地を残さないように過剰に強く意見を言ってしまったりもする。とにかく気持ち悪いのは、表現なり意見なりにおいて、反対意見を出すことを許さない(許せない)雰囲気があって自分もそれに同調してしまっていることで、それがなぜかといえば、自分の意見や表現には自分の全人格が乗っている、というような共通理解があるからで、そんな余裕のない状態で生産性のある話し合いなど起こりようもない。そして、自分の意見や表現に自分の全人格が乗っていない場合には、本気じゃない、とか、話し合うに値しない、とか言われるわけだ。そんなふうだから、どんどん意見を言う人の数が減っていくし、たまに意見を言う人がいるかと思えば反対意見を出しようがないくらい強く自説を主張するか、反対意見が出たとしても何の興味も示さず(意見は「人それぞれ」だとして!)自説に固執するかで、これはもうものすごく不毛な状態、つまり「人間が話し合える環境」の不在ということで、なかなかやばいと思う。いや、でも自分の意見に自分の人格をまったく乗せないわけにもいかないし、ということは、反対意見が出たらムムッとなるわけだけれど、なんというかそこでの余裕の持ち方というか、反対意見への関心を失わないことが必要で、ということは、反対意見によって自分の意見と人格が変わっていく、変えられていくことを受け入れないといけないのだろう。でないと、自分の意見で誰かの意見が変わっていったり、することもないだろう。しかし、現状の環境では、反対意見や変化を受け入れることのコストが妙に高くて、しんどいので、なかなかできない。たぶん、あまりに「個」にこだわりすぎなのだろう。