阪急三番街インデアンカレーを食べようとして、食べない。帰ってから、阪急オアシスにて購入した4割引の肉うどんと野菜ジュース。山本握微さんは「ある種の倫理観」と言っているけれど(http://www.kiwamari.org/u/diary_10.html)、私の場合も、たしかに倫理観なのかもしれないけれど、倫理とか正義とかいうよりも、なんというか、謙虚さと傲慢さの共存というか、そういうもののような気もする。たとえば、表現、とか、ざっくりいってみたときに、えーとつまり、美術とか音楽とか文学とか評論とかデザインとかそういうのまで含めてざっくりいってみたときに、表現行為の結果に生じる表現物は、場合によってはゴミでしかないわけです。置き場所を間違えるとただのゴミでしかない。不法投棄。にもかかわらず、その「場合によってはゴミになるかもしれないもの」のもたらす影響はけっこう大きい。なによりまず表現行為=生産の過程でなんらかの資源をつかっている。そして、表現物であるからには誰かが鑑賞するわけで、鑑賞者に鑑賞のための労力を払わせている。というわけで、非常に、表現=生産というのはおそろしい。誰の迷惑にもならない表現=生産というのは、まず、ありえない。こういう感覚は、あまり音楽とか美術とかにはないのかもしれないけれど、正直なところ「つくり手」の側の都合ばっかりが重視されているようにみえるからだけど、建築には強くあるっぽい。そりゃ、物理的な空間を大量に占有してしまう「建物」だから、それをデザインするにあたっては、社会的な責任というものを、どうしても意識せざるをえないだろうなあ。まあ、誰かの迷惑になるかもしれないのは分かっている!でも自分のためにやるのだ!というのが普通なのだろうけれど、自分のためにやるのはいいけれど、だからといって、誰かの迷惑になってもいいわけでもない。このへん微妙なところ。自分のためにやっている!といって誰かの迷惑になるのは、まあ当たり前だから別にどうということもないけれど、誰かのためにやっている!と言いながら実際には自分のためだけにやっていたり、誰かの迷惑になってしまうことがあるというのは、やはりちょっと問題がある。責任の問題として。「よかれ」と思ったからといって責任がないわけではない。それと、とりあえず、表現者一般、美術とか音楽とか文学とか評論とかデザインとかそういうのまで含めた表現者一般、に対して、資源のムダ遣いをするな!と言ってみるのは、重要な気がする。エコがどうとか以前に、たんなる責任の問題として。自分で買った資源だから自由じゃないか、と言われそうだが、そういう問題ではなくて、ムダになる=ゴミになる可能性のあることが問題。いま書いているこれにももちろん当てはまる。どうせゴミだと開き直るのは簡単だが、ゴミにならない努力をしないのはやはり問題だろう。でもまあ置き場所さえ間違わなければとりあえずゴミにはならないだろう。けれど、それ以上の、公共の利益、とまではいかずとも、そういうものへの貢献はどうやったらできるのか。あと、国民総表現者現象というか、「誰でもピカソ」現象について、個々の人間の多様性が生まれるからよい、多様化していくからよい、というのは、どうもすこしあやしい。「多様性」という問題に限るならば、このような現象の結果、多様化というよりもむしろ均質化に向かっていくのではないかしら。いまは、いろんな情報が瞬時に広がるようになっているから、なおさら。そりゃもちろんみんな自分なりに個性を出そうとはするだろう。でも「表現」という次元でいえばそんなに人間ちがうわけでもないし、人間っていう生きものは自分のつくったものに縛られてしまう傾向があるし、つまり思い込みがどうしてもでてきてしまうし、つまり他人がつくった方法を無批判に受け入れてしまう傾向があるし、つまりどうしても他人の言葉で語らないといけないというか。いや、それよりも、自分の趣味嗜好というか、キャラを、既存の「キャラ」に合わせて変につくりこんでしまうことの方がさらに根っこの方の問題なのか。ロックミュージシャンとしての自分とか、現代美術家としての自分とか、映画館監督としての自分とか、即興演奏家としての自分とか、建築家としての自分とか、グラフィックデザイナーとしての自分とか、「キャラ」はいろいろ。キャラに応じてライフスタイルも用意されていたりする。なんなんだろか、これは。いや、もちろん「つくる」ことで「かんがえる」ことには意味があると思いますが。たんなる目立ちたがり、見せびらかしのための「つくる」になにか公共の利益になるものがあるかというと・・。どうやろう・・。うまく商業世界に居場所を確保できればいいんでしょうけど。そうでない場合、ちょっとややこしい。。いや、「表現」がどうやこうや以前に、いろんな人がいろんなことをやっていること、はとてもすばらしいと思うのですが、こと「表現」とかいうことになると、なにかこう個々の人間の面白さが消えて、みょうに平坦になってエゴばっかりが見えてくる、そう見えてしまうのはなぜかいなと思います。実際にそうなのではなく、そう見えているだけかもしれませんが、それなら自分にそう見えるのかはなぜか、気になる。みょうに平坦になってしまうのは、私たちのなかにある、他人とまったく違うのは嫌だが、まったく同じも嫌、というわけのわからん欲求のせいなのか。そういう悪しき「ふつう」のせいなのかどうか。そういう「ふつう」を基準にした「ふつうじゃない」も、結局は平坦になっていくし。とりあえず、さっき読んだ青木淳「原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ」の「妹島和世のフレキシビリティ」より

 妹島和世の基本にあるのは、建築はそれでもつくられる、という感覚である。放っておいて、空間が勝手にでき上がっていくということはない。そこには無意識であれ、なんらかの法則が働いている。だから設計する以上、できてしまったものがたまたまそうなってしまったというのでは無責任で、つくり手は建物の隅々のところまで、建物のどんな面でも完全に責任をもって決定すべきである。好むと好まざるにかかわらず、空間はすべてにわたって統御されなければならない。ただ統御された空間は人を拘束する。そしてその統御の仕方がつくり手の内側に発するものであれば、人はつくり手に拘束されているということになる。それは避けたい。これが彼女の基本にあるもうひとつの感覚である。恣意性は排除されなければならない。彼女の勝手気ままは許されない。空間から「押しつけられた」という感覚は消さなければならない。彼女はあくまで透明でなければいけない。でもそれと同時に、でき上がったものは完璧に彼女の統御下になければならない。これは困難ということを通り越して、ほとんど矛盾したふたつの欲求である。
 オーソドックスな意味でのつくり手にはこういう矛盾はない。つくりたい。それだけなら、できたものの背後からつくり手の影が浮かび上がってきてそれで構わないわけだし、またそれが望まれている。つくることはつくり手の表現行為である。当然恣意的である。どうしてそこに個人が現れていけない理由があろうか。一方、オーソドックスな意味でのエンジニアにもこういう矛盾はない。法則にしたがって、ルーティンにしたがって、課題が計量化され、演算され、最適解が求められる。そこに恣意性が忍び込む余地はない。だけどそれはつまりつくることではない。一種の課題解決作業にすぎない。
 妹島和世が古典的な意味での建築家でないのは、一方でつくることの質は残しておきながら、もう一方でそこから自分を消そうとしているところである。このやっかいな立場を最初から抱え込み、その矛盾にずっと向き合いながらつくっているところである。