朝、6時ごろか、妹から借りたデジカメで撮影とテープレコーダーで録音。12時半くらいに鳴るように目覚ましをかけて就寝。14時40分くらいに担当の美容師さんからの電話で起きる。14時に美容室を予約していたのに寝坊した。髪切りに行くのに寝坊って。平に謝り、じゃっかん寝ぼけ気味なので、別の日の予約をあとでまた電話する、ということでいったん電話を切る。わりあいがっくりくる。ふて寝。18時50分、伊丹着の飛行機で母ちゃんが来るので、17時まえに家を出る。駅までの道すがら、美容室に電話。来週の火曜日に再度予約。15時。かならず行きますと。阪急神戸線で十三まで行き阪急宝塚線蛍池まで行きモノレール。19時09分に伊丹空港着。とりあえず、ANAのターミナルへ。到着ロビーに行く途中で、外の横断歩道のあたりに立っている母ちゃんと姉ちゃんを見つけたので合流。おじさんは私を探しに行ったらしいので、ロビーの方まで行く途中で会う。車で西宮へ。ガーデンズの阪急のデパ地下とイズミヤで買い物。おじさんはイズミヤのことをネズミヤという。ガーデンズで、仕事帰りの妹と合流。ばあちゃんは家で留守番。買ってきたトンカツとコロッケと刺身盛り合わせといわしの煮付けと姉ちゃんがつくったナムルと母ちゃんが持ってきた佐賀産トマトと冷蔵庫の中にあったレタスと生ハムのサラダ、という謎の献立の食卓をみんなで囲む。やはりばあちゃんはたくさんの人がいた方が楽しそうだ。ばあちゃんは甘エビが好きだ。食事のあと、食器を洗っていると、台所の左半分は人の持ち物で、右半分だけがうちの持ち物だ、ということを、ばあちゃんが言っていて、やはり台所を他人のうちだと思っている。ヘルパーさんがいるのは、たいてい台所だから。知らない人がいるところ=他人の家。仏壇のある部屋も、角に飾ってあるでかい造花がどうやら人に見えるらしく、この部屋には4人くらいの家族が住んでいると思っている。ここにあるものを持っていこうとすると、人のうちのやつを持っていったらいかん、と怒られたりする。妹は明日、親知らずを抜くらしく、ばあちゃんは散髪に行く。妹を待っているあいだ、姉ちゃんと母ちゃんがぐうぜん入った洋服屋に、ステッチアンドソーの商品が置いてあった。そのカバンいいな、と母ちゃんが言っていたので、これこれ、おれのカバン、これの色違い、と教えてあげる。グレーはなかった。くるりの新譜「魂のゆくえ」を妹が買っていたので、勝手に拝借して聴いている。せっかくなので、三宅桂加という人について、少し書く。いま玉造のブックカフェbeyerで展示をされていて、そのなかで絵と録音の作品がひとつあり、これは私と三宅さんとの共作ということになるのだけれど、まあそれについては置いておいて、三宅さんについて。今回の展示はタイトルがなく、作品にも題名はない。無題というわけではなく、つける必要がない、ように見える。三宅さんの絵は写真と間違われたり、写真でいいじゃん、と言われたりするらしく、一昨年のソーイングギャラリーの個展を見たとき、写真のようだとは思わなかったが、「写真のような」風景の切り取り方、だとは思った。でも写真でいいじゃん、とは思わない。ご本人に聞くところによると、風景を写真に撮ってから、それをもとに絵を描くらしく、別にこれは秘密でもなんでもなく、たぶん見れば分かるし、とのこと。風景を描くにあたり、自分の目でちょくせつ見て描くのではなく、カメラ=機械のレンズ=目で見た像を自分の目で見て描く、というのが面白くて、手法として面白いというのではなく、そういう方法を必要としたことが面白くて、どういういきさつでそうなったのかは分からないけれど、ただたんに便利だったから、というだけかもしれないけれど、結果的にそのことが、描くという行為や、出来上がる絵にも大きな影響を与えているように思う。自分の感覚で風景を切り取ってきて他人に見せる・紹介する・みせびらかす、のだけが目的であれば、もちろん写真「で」いいわけだけれど、三宅さんの場合、それは目的ではなくて、カメラのレンズが捉えた風景の像を「自分の目と手で」なぞる(描く)ことによって、風景を自分に馴染ませる、記憶する、自分が風景になる、というようなことが目的のようで(小学校の頃やった「漢字を書いて憶える」ことを思い出す)、だからこそ、出来上がった絵にはなんの愛着もないらしいし、なんでこの風景なんやろ?と思いながら描くらしいし(撮る三宅さんと描く三宅さんが、分離している?)、展示をやる場合、すべて新作でやりたいらしい(現実にはなかなか難しいわけだけれど)。さらに、三宅さんの絵には作者の個人的な感情をあまり感じないというか、本人も自分の絵について「表現したいこと」はない、とも言っていて、風景を描くことで風景に自分の感情を託す(風景を自分化する、ないしは風景を媒介に自己表現する)のではなく、風景を描くことで風景に自分を馴染ませる(自分を風景化する)わけだから、そう考えるとこれは当たり前のようにも思える。そして、なにより面白いと思うのは、出来上がる作品が、「自分の風景化」の過程でどうしてもできてしまう副産物のようなものであるということ。でもまあいま書いてきたみたいなことは私から見てのことで、そんな大げさなことでもないのだろうけれど、こう見てくると、私がやっていた「ご自由にお持ちください」(便宜的にそう呼ぶ)→http://d.hatena.ne.jp/k11/20070706 と、わりあいやっていることが近いように思えて、私の場合も、機械でもって風景を録音しつつ身体でもって風景に居る、機械の耳と人間の耳の併存、というのが重要で、その結果どうしてもできてしまう録音物にはなんの興味もなくて、残りカスでしかない。とはいえ、残りカスからでも、行為は再構成できるかもしれない、と思うくらい。なので、結果的に生じる、カセットは「作品」ではなく残りカスで、ポラロイドも「作品」ではなく行為の記録でしかない。だから、どっちかといえば、重要なのは、ポラロイド。ポラロイドの補足のためにカセットをつけているだけ。このへんの接点を軸に、三宅さんと私の共同制作として、絵と録音の「体験」をつくってみたのだけれど、いままでの二人の脈絡とはぜんぜん違うものになった気がする。カセットも「聞く」ものになっているし。残りカス化と作品化の綱引きみたい。どっちもがどっちにも引っ張っている。beyerでの三宅桂加展はあと2日で、27の土曜日(12:00〜18:00)と29の月曜日(12:00〜20:00)。28の日曜日はお休み。27の土曜日は18時閉店なので要注意。あと、beyer梅田さんの手によるチラシもさすがの出来で、デザインはもちろんのこと、紙の選択もよいなあと思う。田尻裕彦,石堂威,小巻哲,寺田真理子,馬場正尊 監修「この先の建築」は思いのほかハードな内容。しばらくとりくむ。もとになったシンポジウムの詳細はこちら。→http://www.toto.co.jp/gallerma/100times/sympsm.htm 松原隆一郎「消費資本主義のゆくえ」を読んでいて思ったのは、このひとは経済の人ではなくて、社会学者なのだなということ。