柏木博「デザインの20世紀」はこのまえ読み終わって、「世界デザイン史 カラ−版」も「第4章 アメリカのインダストリアル・デザイン」にやってきた。いまヘッドフォンからはBATTLESの「Mirrored」が聞こえてきていて、7曲目か8曲目か。アルバムのまえのEPでは、なんというかポストロックによくあるギターのアルペジオ主体のアレンジだったのだけれど(なぜか悲しげな。なんなんだろう、ある種のポストロックのこのメランコリック趣味は。いまはそんなことないのかどうなのか知らないけど)、このアルバムはわりあいそうじゃなくて、変なボーカルも入っていたりして試聴したら面白かったので購入。TORTOISEのアルバムが6月に出るらしい。タイトルは「Beacons Of Ancestorship」。おっ、BATTLESの「Mirrored」が終わった。RADIANも、たしかアルバムをつくっている。サイトに「...last tracks are edited. files. spliced. cuts. made. seems the new album is going to be finished... 」って書いてある。RADIANでなんとなく思い出すのは、hapnaからCDが出ている、イタリアのバンド(というよりも、サイト(http://www.sinistri.org/)によると「experimental music unit 」らしい)sinistriのことで、このユニットはnonmetric musicというものを標榜している。hapnaから出ているアルバム「free pulse」を聴いて、即興でもなく曲でもなく、それこそ「適当に」音を出しているサウンドチェック中のRADIANみたいな印象を受けたのだけれど、それはたぶんドラムと電子音があるから。ほのかにブルースっぽい単純なリフをひたすら弾き続けるギターもいる。メンバーは4人いて、「free pulse」のクレジットによると、Manuele Giannini (guitar, amps, echoplex, wah, speaker, computer), Alessandro Bocci (computer, sampler, mixer, synth, turntables), Roberto Bertacchini (drums), Dino Bramanti (realtime processing/live mixing,sampling,Max/MSP code except tracks 4,6,8,10)とのこと。サイトにある「SINISTRI manifesto」を書いているのがギターの人だからギターの人が実質的なリーダーなのかもしれない。即興でも曲でもない、って印象は、たぶん、フレーズやら音やらにループ感がないからで、わかりやすい反復はしないとはいえ、なんらかのテンポというかなんらかのノリ、グルーブで音が出ているので、いわゆる即興感もない。そのノリも速くも遅くもない、デレッとしたノリ。どちかといえば遅いのか。あと各人が出している音に特に個性があるわけでもないし(これはたぶん狙っていると思う)、ノリがずーっと同じなので、曲ごとの印象っていうものがあんまり残らない。この曲はギターが長いフレーズを弾いてたな、とか、この曲は声が入ってたな、くらいは憶えているけど。いまのこの瞬間の音の重なりをどんどん忘れていくみたいな感じはする。機能主義について調べていたら出てきた「Goethe-Institut デザイン・トレンド」というサイトを見ていたら、コンスタンティン・グルチッチについての記事があって、意外に若いことに気付く。なぜかは分からないけれど、たいへんなベテランかもう死んでいるくらいに思っていた。グルチッチの名前を知ったのは、大学のときになんかいいタンブラーがないかと探している時に知ったイッタラのタンブラーでだったか。結局、探しはしたけれど、貧乏なので買わなかった。探したいだけだったのか。機能主義について調べていたのは、「世界デザイン史 カラ−版」の「第4章 アメリカのインダストリアル・デザイン」の最初にそれが出てきたからで、それによると、「機能主義」という概念の起源として、ホレイショー・グリーノウの「美は機能の約束である」から、フランスの博物学者ラマルクの「環境の諸条件は動物の形態および習性に影響を及ぼす」という考えにヒントを得たルイス・ヘンリー・サリヴァンの「形は機能に従う」(form follows function.)に至る、とのこと。さらにサリヴァンの機能主義は、「家は住むための機械である」というル・コルビュジエの機能主義とは異なっているらしい。「サリヴァン 機能主義」とかでググると玉石混交いろいろ出てくるが、面白かったのはこれで(http://www.goethe.de/kue/des/prj/des/dth/ja4066260.htm)、この記事によると、「形は機能に従う」という命題を誤解した「機能主義」において、形態の根拠としての機能を信じるあまり、『機能を果たす上で役に立たないものは、すべて無益で、ゆえに不必要なものとみなされた。』らしい。「機能」という概念をものすごく狭く捉えた、こういう「機能主義」はサリヴァンのものともコルビュジエのものとも違っているような気はするけれど(コルビュジエは「家」と「住む」ということばで概念をちゃんと限定している)、なんというか、モノにあらかじめ内在するものとして「機能」を捉えているような。ラマルクの「環境の諸条件は動物の形態および習性に影響を及ぼす」を念頭におくと、サリヴァンの「形は機能に従う」はどちらかというといまでいうアフォーダンスのような感じっぽい。動物の必要や欲求が環境の諸条件と相互作用するときに生まれる形がすなわち機能で「も」ある、というような。この視点に立つと、サリヴァンが「形は機能に従う」というときの「機能」という概念が、かなり幅のある意味で使われているように思える。動物の必要・欲求それ自体を指すのではなくて、さまざまな必要・欲求と環境の相互作用を総称して「機能」と呼んでいる気がしてくる。形態の根拠としての機能を一途に信じる機能主義は、「機能」のなかにただひとつの所与=あらかじめ与えられたもの、を見ようとする。たとえば、ペンの機能は「書く」ことだけれど、現実には「書く」だけで完結しているわけではなくて、人間には「どのような状況・環境で」「どのように」書くかについての細かな必要・欲求が必ずあるのだけれど、それを見て見ぬふりをする。こういう過剰な還元は普遍主義でもある。普遍主義というか画一主義というか。それぞれ同じものの別の側面だな。「機能主義」とひとことでいっても、「機能」ということをどう捉えるかでずいぶん違うな。たとえば、「機能」をめちゃくちゃ狭く捉えると、ひたすら「本質」に還元しようとする純粋さに支えられたメタデザインとしての機能主義(普遍主義)になるだろう。そしてそれは原理的に不可能でもある。なぜかというと、人間は動物ではないし機械でもないから。人間は環境からはたらきかけられるだけでなく環境にはたらきかける生き物でもある。そしてもし人間が、経済学(アダム・スミス)でいうような「ホモ・エコノミクス」のように自己利益のみに従って行動する完全に合理的で冷徹無比な存在=機械のような存在、もしくは動物のように種のなかでの多様性が少ない存在であるならば、メタデザインとしての機能主義(普遍主義)というプロジェクトは完遂しているはずだ。でもそうはなっていない。あと、「装飾」というのも一種の機能だと思うんだけどな、と思っていたら、そういう記述も「世界デザイン史 カラ−版」の「第4章 アメリカのインダストリアル・デザイン」には出てくる。そこにはフランク・ロイド・ライトの名前もある。「形は機能に従う」、うん、それはいい、でもその機能はどこからやってくるのか、それだけで自立する抽象的な「機能」なるものなんてあるわけないではないか、形はいったいなにに従うというのか、という疑問がむかしからずーっとあったので、すこし進んでよかった。なんだか誤解していたようだ。これは芸術作品における、「かたち」と「内容(概念)」の対にも関係する。いつまでも「内容・概念・目的」に「かたち」を従属させるやりかたでいいのか。それと逆にいつまでも「かたち」が「内容・概念・目的」というやりかたでいいのか。いまさっき「ブログ通信簿」をやってみたらブログ年齢が15歳だった。このまえは45歳だったのに。。「サリヴァン 機能主義」とかでググってでてくる面白いのはほかにもたくさんあって、いまここを読んでみたら面白かった。http://ofda.jp/lab/lecture/word2009/06/lecture06_01.php 1、数学的メタファーとしての機能。2、生物学的メタファーとしての機能。3、「有機的な」形態理論における生物学的メタファーとしての機能。4、「用途」を意味する機能。5、ドイツ語の「sachlich〔即物的〕」「zweckmassig〔合目的的〕」「funktionell〔機能的〕」の訳語としての機能。6、一九三〇〜六〇年の英語圏における機能。7、形態‐機能というパラダイムとしての機能。機能機能。そしていつしか道具へ。さらに機械へ。