およそ5ヶ月ぶりに髪を切る。夙川で降りるとぱらっと雨が降っていて、風に吹かれているのでいっしゅん雪かと疑う。切った髪はちりとりいっぱいになった。帰りに大阪方面のホームで電車を待つあいだ、成城石井にちらっと行って酒コーナーをみてみると、なんとなくワインが多い。ホットでも、コールドでも、というビールがあって、ちょっと試してみたくなるが、いまから西北に行くので持ち歩くのが面倒。アクタ西宮でジュンク堂と無印。西宮ガーデンズブックファーストHMVユニクロ、とカリモク60とかインテリアショップとか服屋とか。カバンを探してはいるもののそんなに買う気もない。HMVはテクノコーナーをちょびっとだけ見て退散。sndの新譜の日本発売(日本盤?)って来月っぽいなー。ブックファーストもアートコーナーをちょびっとだけ見て退散。そのまえのジュンク堂ではトーマス・ハウフェ「デザイン史入門」という本をチェック。六甲のブックファーストで電車に乗るまえにちょっと立読みしたけど、マンガでル・コルビュジエ、というか、ル・コルビュジエ物語、みたいなのが出ている。興味が増えてくると、本屋に行ったときに、見る棚が増えてたのしい。建築コーナーなんて前は素通りしていたのに。数学とか法律とか精神世界(スピリチュアル?、このまえ梅田の紀伊国屋のスピリチュアルコーナーにたくさんの若い女性がいてちょっとびびった。熱心に立読みしている)はいまだに素通りだけど。数学は興味はあるけど時間がない。電車の生き返り、行き帰りで、郡司ペギオ−幸夫「時間の正体 デジャブ・因果論・量子論」を読み進める。いまは「第4章 内部観測からA系列・B系列へ」。松野孝一郎さんの提出した「内部観測」の郡司さんによる拡張からはじまって、クリプキのパラドクスに出てくる懐疑論者のはなしを経由しつつ、運動の流れと時間の流れにきたあたり。郡司さんのいう、内部観測と時間の繋がりをみていくと、なんとなくハイデガーを思い出す。存在論的差異と時間。「内部観測」における、ある対象Xについての、対象としての「X」と様相としての「Xである」の分離と混同(とその結果に生じる実在としての「X」の発見)。それを郡司さんは、階層差に対する同一性原理と呼んでいる。郡司ペギオ−幸夫「時間の正体 デジャブ・因果論・量子論」、「第4章 内部観測からA系列・B系列へ」より。

ならば我々は、この異なる水準を同一視する運動を、経験という運動の原理として受け入れるところから立論すべきであろう。

たしかにそうかもしれないと思う。論理的には無意味な自己言及的形式ですら、現実には有意味のように運用できてしまう、というところからスタートした方が、なんとなく実りが多そうだ、というのは分かる。有意味のように運用できてしまうこと自体を「矛盾」だと言い立てることに別に大した意味はない。これは、なんらかの論理的な矛盾を、現実の経験として表現しようとしたときに、なんらかの質料を伴う実体化が必要になり、それゆえ、純粋な矛盾としては成立しなくなる、ってことを下敷きにしている。のかな。どうやろ。とりあえず、人間は、自己言及のパラドックスに陥ってもスタックオーバーフローはしない。コンピュータはするけど。あと、「言語」もまた経験のひとつ、っていうのはたしかにそうだなあ。でも、ちょっとこんがらがってきたな。でも、常に予想もしないところから「時間」にアプローチしてくる本だから、飽きないな、これは。「大航海 No.70 特集[現代芸術]徹底批判」を六甲のブックファーストでまた立読み。「近代の残滓としての芸術」という文章が面白そう。でも、1500円っていうのがなんだか微妙な値段なのよね。ちらっとの立読みだけれど、そこから受ける印象からして。