昨日、今日、明日、ひょっとするとあさっても、土曜日の「運河の音楽」にて配布するカセットとポラロイドの録音・撮影をするために、兵庫運河を昼から夜までうろうろしていて、頭のなかで考えているうちは楽勝楽勝と思っているが、いざ実行に移すと意外に大変だ、というのはいつものことだし、絵描きさんも作曲家もアーティストもそれぞれに見えないところで大変なんだから、大変とか言ってはいけない、と思いつつも、こりゃ大変だと思いながら、歩き回り、録音し撮影する。運河周辺の40箇所を歩きながら選んで、それぞれの場所の昼と夜の様子を、チェキで撮影し、テープレコーダーで録音する(A面が昼、B面が夜)のだけれども、昼はまあいいとして、夜に録音・撮影するのがちょっと気をつかうというか、選ぶ場所はほんとにただの道端なので、夜に道端でリュックを背負ってごそごそしている人間が何者かというときに、放火魔、くらいしか思いつかないので、あまりの自分の不審者ぶりにくじけそうになる。「運河の音楽」はコミュニティアートを謳っているのに、地域のみなさんに不安感を与えてどうするのか。あと、10分テープを使っていて(片面5分)、それが40個だと400分で、純粋に録音時間だけでも総計約6時間40分で、移動とかもろもろ含めるとそれ以上はかならずかかるわけで、さらに、昼と夜を録音・撮影しないといけないので、17時くらいから2時間くらい日暮れ待ちをしないといけない。なので、一日に録音・撮影できる量はカセットでいうと18本、ポラロイドでいうと36枚、というところが限界か。20本くらいはいけそうでもある。午前中からいけば、もっといけるか。いや、ほんと夜がつらくて、あまりの自分の不審者ぶりにだけれど、堂々としていればいいのかもしれないが、どう見ても怪しいので、ささっと撮影して(フラッシュが光るので余計に怪しい)録音ボタンを押したらケイタイのタイマー(4分45秒にセットしてある)をスタートさせて、録音・撮影場所に留まらず、逃げるように現場を去り、その周りを5分間、歩き回るようにした。昼間は5分間、現場で本を読んだりぼーっとしたりして過ごす。昼間は道端でぼーっとしてても怪しまれないが、夜だと事情が変わる。公園みたいなところだと大丈夫だけど。あとは、体裁について悩む。これを持って帰ったひとにどういうふうに受け取られるか、という部分は、体裁=デザイン(全体の設計という意味での)にかなり影響されるので、石を削って彫刻をつくるように、削る作業。もちろん解釈を固定するためにではなくて、それぞれに自分のものとして受け取れるように、基礎作りを体裁でやる。体裁っていう言い方は正しくないかもしれない。現れ方とでもいうべきか。カセットとポラロイドが、それ自体を愛でるようなものになってはいけないし、かといってチープすぎても、ある種のメディアとして機能しなくなるかもしれない。今回、実のところ、カセットとポラロイドの内容(録音されている音、撮影された風景)自体はさほど重要でない。いや、というよりも、今回に限らず、内容だけで自立(自律)するものなんかない、ということか。それを踏まえどう削ればよいのかしら。加藤秀俊「企画の技法」は、きょう録音しながら(5分経つのを待つ)読んでいるうちに読み終わる。集団思考のくだりなど、特に面白い。集団思考において個人がしゃしゃりでてくると具合が悪い、というのは、ほんとそうだと思う。そしてそういう場合になぜしゃしゃりでてくるかというと、責任の所在、もしくは、手柄は誰のものか、という理由による、というのもほんとそうだと思う。個人の輪郭、領域ありきの集団思考集団思考じゃなくて、個人思考の共存、というと聞こえはいいけれど、たんに他人への無関心でしかないか、いつもの「人それぞれ」という、他人を尊重しているようでいて実のところ自分を守りたいだけの身振り。そっちには口出ししませんから、こっちにも口出ししないでください、という。このへんは、やっぱりかなりむずかしい。はなしあうことのむずかしさか。