青木淳悟「このあいだ東京でね」を六甲のブックファーストで買う。三宮の駅のなかにあるブックファーストにはなかった。最近、六甲のブックファーストは規模がちいさくなって、残念だ。新書のあたりをぶらついていたら、ちくま新書で目についた、杉田敦「デモクラシーの論じ方―論争の政治」も、青木淳悟「このあいだ東京でね」と一緒にレジへ。ふたつで2300円くらい、たしか。実家、というか、生まれ育った家のお風呂でこつこつ読み進めていた柏木博「道具とメディアの政治学」は新幹線のなかでかなり進んで、昨日のリビングで読み終える。けっこういろいろ面白かったが、面白かったということしか覚えていないので、ざっと見返してみるといいかもしれない。いま思い出そうとしているけれど、思い出せない。ちょっと思い出した。情報の消費とか。杉田敦「デモクラシーの論じ方―論争の政治」は、ひたすらAとBの討論形式。おもしろい。民主主義、というか、複数の人間が集まって物事をやるときの決定の仕方の難しさ、物事を進めることの難しさ、が気になる。物事を進めるための折衝、すなわち、政治??仕事中のFMラジオで、コールドプレイのヴィバラヴィダやったかな、そういう曲名の曲のアレンジにそっくりな日本語の歌を聴いた。四つ打ちで、ストリングスみたいな音がテッテッテッテ、テッテッテッテッテー、みたいな。畠山美由紀さんが好きなので、youtubeSUGIURUMN feat.Miyuki Hatakeyama「star baby」のPVをたまに観るけれど、なんだかすごい。なんだろうなあ、これ、なんていうのか、ラグジュアリー??ラグジュアリー(笑)。スイーツ(笑)。論考(笑)。セレクトショップみたい、なんとなく。別に嫌いではないけど、嫌いではない理由としては、こういう「記号」を消費するのも別に嫌いではないから。だいぶまえに「スイーツ 笑」とかで検索してやってくる人がいて、なんだろうと思って調べてみたら、ネットの世界では、スイーツということばに(笑)をつけることで、別の意味を持つスラングになるらしい。昨日入ったスタバで、スタバ(笑)ていうのもいけるのかいけないのか、微妙なところか、スタバで隣に座っていた、就活中とおぼしき、黒髪でスーツの女子大生3人組は、私たちが店にいたあいだ、2時間くらいか、ずっと恋愛のはなしをしていた。途中、ipod touchのはなしになったけど、すぐ恋愛話、恋バナ(笑)、に戻る。今日、9万くらいおろしたんだけど、彼氏のぶんと自分の分のタッチを買ったらなくなっちゃってさあ、というはなしをしていて、タッチ?タッチを全巻、彼氏の分と自分の分買ったのか?!とか思ったけど、ipodだった。誕生日にワインをもらったんだけど、飲めないけど嬉しかったとか、なんとかかんとか、いや、ほんとに湧き出るように恋愛話が出てくる。なんだかマクドにたむろする高校生みたいだった。もし会社にいたら、こういう人たちが新入社員として入ってくるのよー。すごいなー。怖いなー。NUのタワレコで、Ø Mika Vainio「ATAK012 OLEVA」、なんだかどこまでが音楽家の名前でどこまでがアルバムのタイトルなのか。Ø=Mika Vainioなのは分かるので、分かるけど。試聴。しぶい。渋谷慶一郎さんのブログ経由で読んだ、REALTOKYOにある有馬純寿さんによるレビューのなかに『CDショップの「音響」コーナーに、耳あたりはいいが骨のない草食アンビエントが増えつつあるなか』という表現があるけれど、まあなんというか、こういう言い方はさておき、こういう言い方が出てくる意識の前提が気になる。当たり前だが、草食=骨のない、ということはその反対に、肉食=骨のある、があるわけで、その対比は、後衛/前衛の隠喩でもあるだろう。芸術もどき/真の芸術、でもあるかもしれない。CDショップの「音響」コーナーに増えつつあるものを、「耳あたりはいいが骨のない草食アンビエント」というふうに否定的に判断する根拠がそもそも、この対立を前提としているわけで、しかも肉食=前衛の論理でもって一方的になされている。いや、有馬さんにどうこう言いたいわけではなくて、見ず知らずの有馬さんに恩も義理もないけれど、かといってケンカを売る必要もないわけで、これしきでケンカを売ることになるとも思えないけれど、CDは一枚持っているけれど。なんというか、こういうふたつの対立を無批判に前提にした思考様式はかなり広範にわたってある、ということが気になる。自分にもある。わかりやすいところでいえば、メジャーとインディペンデントとか。図式として分かりやすいからなのか。だいたいその対立は対立なのか。前衛はなぜ前衛なのか、後衛はなぜ後衛なのか。あー、でもレビューとか紹介文とかオビとかってなんでもそうだけど、広告効果を狙って、多少は挑発的に書くものだから、ただ単に、広告効果のため多少は挑発的ってだけかもしれない。でもその「多少は挑発的に書くものだから」っていうのはいったいなんだという。なにかを褒めようと思ったら、なにかをけなせ、ということ?そういうやり方じたいが貧しいのよね、たぶん。東京から戻ってきた父ちゃんのおみやげはスパイラルで買ってきたという、イイホシユミコさんのマグカップ二種。手作りのものとプロダクトのもの。アイボリー。グレーじゃないところが父ちゃんのセンスなのか。神戸のvivo.vaで見かけてわりといいなと思っていたイイホシさんのマグカップのでっかいの。イイホシさんの食器は、見たらすぐ分かるけれど(ということは、かなり明快にコンセプトがモノに現れているということ)、大量生産=プロダクトと、一点もの=手作り、のはざまにあるもので、このコンセプトは割と現代的というか、おもしろい。以下、イイホシさんのサイト(http://www.y-iihoshi-p.com/)より引用。

うつわがツールとなって、それぞれの人の記憶に思いが浮かんでくるような
作品を作りたいと常々思い制作しています


手づくりのものは作り手の手跡が残らないように
プロダクトのものは手づくりの良い部分を活かして味気のないものにならないように


「思いをもてる、手づくりとプロダクトの境界にあるもの」


これが私のつくりたい食器です

たとえば、大量生産への反発としての手作り(手の特権化)、手作りへの反発としての大量生産(機械の特権化)、というものは、けっこうあるけれど、それが極端すぎると陳腐になるというか、なんというか、とりあえず息苦しい。手と機械の対立を克服するべくモダンデザインが採った戦略は、機械(テクノロジー)を手の延長だと見なす、ということで、これは柏木博「道具とメディアの政治学」に書いてあったことだけれど、実感としても分かる。これはイイホシさんのいう『プロダクトのものは手づくりの良い部分を活かして』に繋がるのだけれど、イイホシさんが面白いのはもうひとつの軸として『手づくりのものは作り手の手跡が残らないように』もあること。手と機械(テクノロジー)の対立について、ふたつが共存する方向を採ったのがおもしろい。とはいえ、バランスとしては、全体的に、プロダクトっぽい手づくり、という感じ。どちらかといえば「手づくり」に入るだろう。プロダクトデザイナーではなくて、食器の作家なのだろうし、なにより商品ではなく作品だから、そういう意味でも、どちらかといえば「手づくり」に入るだろうなあ。だからこそ、人気がある、というのもある。作り手の顔が見えるギリギリの手づくり感のバランス。森正洋さんによる無印の白磁のマグカップや、深澤直人さんによる±0のマグカップや、ジャスパー・モリソンによるローゼンタールのマグカップや、カイ・フランクによるイッタラティーマ・マグカップなどは、どちらかといえば「プロダクト」。作り手の顔は見えない、というか、見えないようにつくってある。それが、おそらくはプロダクトの思想だから。日々の日用品(道具)に作り手の顔はいらない、という。ここらへんのことも含めて、手づくりとプロダクトの境界、はおもしろい。