福居伸宏さんの「Übungsplatz〔練習場〕」http://d.hatena.ne.jp/n-291/経由で知った、東浩紀さんの「批評の書き方 実践編」というカルチャーセンターでの講義についての東さんご本人の文章。http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090202/1233560323

 ところで、そこで言ったことですけど、ぼくは基本的に、あるタイプの文芸評論はだれにでも簡単に書ける、と思っています。だからこそ、そんな講義も引き受けたわけです。

 その理由は、柄谷行人以降に書かれている多くの評論が、じつはぼくが「前期/後期モデル」と呼ぶある単一のフォーマットに則って書かれているからです。

 それはこのようなかたちをしています。批評の対象となるのがXという作家あるいは思想家だとしましょう。すると、そのフォーマットに則ると、つぎのような批評が書かれます。「Xには前期と後期がある。前期XはAをテーマにしている。そして後期Xは一般にはダメだと言われる。しかしじつは、後期XはAを突き詰めたがゆえに、むしろ困難Bに立ち向かっているのだ。ではそのBはなにか。ぼくたちもまたそこでXと同じ困難に直面せざるをえない」云々。ここでのポイントは、作家のなかに「困難」を見つけ、それと書き手が共振すること。そしてその「困難」を見つけるために、作家のなかに前期と後期という(名指しはなんでもいいのですが)、一種の切断線を導入することです。このふたつができれば、批評の90%は完成したと言っていい。

福居伸宏さんの「Übungsplatz〔練習場〕」で引用されている部分には『作家のなかに「困難」を見つけ、それと書き手が共振すること。』という箇所はないのだけれど、

Xには前期と後期がある。前期XはAをテーマにしている。そして後期Xは一般にはダメだと言われる。しかしじつは、後期XはAを突き詰めたがゆえに、むしろ困難Bに立ち向かっているのだ。ではそのBはなにか。ぼくたちもまたそこでXと同じ困難に直面せざるをえない」云々。

というレトリックはほんとにすごいな、とこうして分かりやすく示してもらうと思うわけで、実にうまいこと、対象(作家)の「困難」と書き手(ひいては読み手)の「困難」が共振=混同されている、というか、書き手(ひいては読み手)が対象(作家)の「困難」について「うまくいえない」という事態そのもの=困難!!を対象(作家)の「困難」に転嫁してしまえる、というマジック??こうすると、書き手(ひいては読み手)が「うまくいえない」のは、当の対象(作家)もまた「うまくいえていない」からでもある、というふうになってしまう。難しいんだよ、、うん、難しいよね、分からんのよ、、うん、分からんよね、、しかし難しいからこそ立ち向かうのだ、でも難しいんだよ、、うん、難しいよね、分からんのよ、、うん、分からんよね、、しかし・・・という「難しがり・分からながり」ループ??これがポストモダンの迂回というものなのか??そしてさらに、対象に見つける「困難」は困難でさえあればなんでもよい、という。。共振というのは簡単にできるから、たぶん。。いや、「困難」を見つける、というよりも、東さんがいうように「切断線」を導入して「不連続」な状態=矛盾をつくってしまえば、それ自体が「困難」を自動的に生み出してくれる、ということになるのか、どうか。あ、それと、もうひとつ思ったのは、東さんの「例文」を読んで思ったのは、例文の最後の一行、『ぼくたちもまたそこでXと同じ困難に直面せざるをえない』で妙に引き込まれるというか、読み手と書き手の共犯関係が成立してしまうというか。読んでいると、自分もまた「X」と同じ困難に立ち向かっているのだ!という気持ちにさせられてしまい、つまり、前期後期がどうやのくだりから最後の『ぼくたちもまた〜』に至る過程で、「X」の「困難」=書き手の「困難」、書き手の「困難」=読み手の「困難」、読み手の「困難」=「X」の「困難」というふうに感じるようになっていて、どこか小説でいうメタフィクションのやり方もほうふつとさせる。あれ、メタフィクションというより三段論法だっけ?