そうそう、http://d.hatena.ne.jp/k11/20081230中ザワヒデキさんについて書いたことは私自身にもあてはまります。今日は「扁炉」という、妹尾河童「河童が覗いたヨーロッパ」の解説で誰だったか忘れたが、いま本棚から取り出してみたら分かるのだけれど面倒臭くて、とにかく誰だかが河童さんから教えてもらったという白菜鍋をものすごく久しぶりにやってみて、大学のときはよくひとり鍋していたのだけれど、そういえば高校のときは「河童が覗いた」シリーズとか、藤原新也「印度放浪」「西蔵放浪」「全東洋街道」とか、沢木耕太郎深夜特急」とか、旅ものの本ばかり読んでいた、主にお風呂で。で、高三で進路を尋ねられて「旅人です」と答えた。でも受かりそうなところを選んで受験したら受かったので大学生に。デッサンの試験がなくかつ「国語」だけで受けられるところを探したら、宝塚造形芸術大学神戸芸術工科大学があって、宝塚にさきに受かったので、芸工大の試験は受けなかった。妹と扁炉を食べていたら、乾燥しいたけのもどし時間が少なくて、あまりよい出来とはいえない。テレビではベストハウスなんちゃらっていう世界丸見えみたいな番組のスペシャルがやっていて、茂木健一郎さんが出ている。その茂木さんを見て思い出したらしく、神戸大学にこのまえ特別講義みたいなので来ていて2日間の予定が1日しか来なくて、神戸大学のものすごく変な先生と友達らしくその特別講義も突然その友達の先生がいかに変かを語り始めたりというもので友達の先生も前列にいたりして、その友達の先生の名前にペギオっていうミドルネームがはいっていてペンギンが好きだから自分の子供の名前にペンギンってつけようとしたら奥さんに反対されて仕方なく自分のミドルネームにして論文もそれで提出する、というはなしをその講義を聞いた同級生から聞いたらしい。その変な先生というのは郡司ペギオ幸夫さんのことで、ペギオの由来に衝撃をうける。宗教上のなにかかと思っていたら、たんなるペンギン好きで、「ペギオ」はペギ夫?茂木さんのブログに郡司ペギオ幸夫さんの面白エピソードがたくさん載っているとのことなので、調べてみたらたしかに載っていて、ペンギン→ペギオ説はwikipediaにも載っていた。ケンカや火事にひとは群がる、っていうのはネットでも同じっぽい。野次馬。そういえば昨日、JR東西線大阪天満宮から尼崎に向かう途中、車内で山本握微さんらしきひとを見かけたけれど、握微さんだったのだろうか。北新地で降りていった。「Ergo Proxy」は最初のあたりこそ謎だらけっていう緊張感があるけれど、プラクシー同士の戦闘が出てきたあたりでちょっと興醒め。あらゆる謎をその身に引き受ける「なにか」が現れてしまう(しかも複数)と興醒めになるのはなぜだろう。泣いても落ちないアイシャドーとか、プラクシーに変身するとそれに合わせて変化する洋服、出たり消えたりする妙な仮面とか。あとはメタフィクションの罠とか。うーん、いやメタフィクションというとなにかよく分からなくなるし、たぶん違ってて、なんだろう、どんどん「外」に出ていく構造というか構成の罠というか。最初はひとつのドーム内のはなしだったのが、その外がある!ということで外に出て行く。最初はひとりだけっぽかったプラクシーなるものがまだいる!ということで二人目以降は謎めきもせずかんたんに出てくる。こういうふうにどんどんどんどん外から入れ子にしていままでの構造・構成を包んでいくから、核の物語が小さく小さくなっていく。逆にレーモン・ルーセルの小説は最初に提示される構造・構成から絶対に外には出ない。内へ内へ行く。内に入れ子にしていく。すると入れ子にされたエピソードの大きさに比例して、つまり、そのエピソードの発端になった事物と、ベースになっている構造・構成との比率に従って、ベースそのものがぐわっと大きくなる。無限にも等しいほど大きくなる。でも大きくなるっていうのは正しくなくて、私たちの見方が変わる、っていうことなので、大/小という考え方は無意味で、豊/貧ということかもしれない。同じか。友達からの年賀状に「祝 ユニコーン再結成!」って書いてあって、あれ、おれ(および、その友達)ってユニコーン好きやったっけ?と思う。でもユニコーンのはなしをしたことがあるような気もする。年賀状が来たら返す、来たら返す、の繰り返し。売られたケンカは買う、みたいな、違うか。って一方的にボケたあと言うのがネタの形式になってるお笑いコンビがいて、この前テレビで見たのだけれど、なんていうコンビやったか、「違うか お笑い」で検索してみると出てくるかも。おっ、私と同じく思い出せない人がいたらしく、検索で出てくるトップのページはYahoo知恵袋の「お笑い芸人でアニーみたいな髪型でボケて「違うか!」と言う芸人のコンビ名がどうし...」という質問。件名が長すぎたのか、途中で切れている。というか、「違うか!」が分かっているのなら、ネットで質問するまえに「違うか 芸人」とかで検索してみればいいのに。他にも思い出せないから教えてくれ、っていう質問ページがいくつか。ドニ・ユイスマン「美学」は第4章「芸術の哲学」をさっきお風呂で読み終えたので次は第5章「芸術の心理学」。かなり足早にかつごく簡単にまとめてあるけど(それでも半分を割いている)、第1部の「美学の諸段階」の第1章でプラトンアリストテレス、新プラトン主義。第2章でカントの先行者、カント、ポスト・カント派。第3章で実証主義美学、観念論的美学、批判的美学(批判理論)、絶対自由美学(ポストモダン?)。小田中 直樹「ライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう」は第5章「効用」の5・1「限界革命3人組」。以前(http://d.hatena.ne.jp/k11/20081224)、マルクスのいう『すべての商品が価値としては対象化された人間的労働であり、それゆえそれ自体が同単位で計量可能である』ということがなかなか理解できないと書いたけれど、それはひょっとすると、私はいままで「効用価値」の世界に生きてきてそれを当たり前だと思っているから、「労働価値」を理解しにくいのではなかろうか。正確には、「労働価値」も理解はできるけれども、あらかじめ「効用価値」を先取りしたかたちであらゆる生産を行うのが当たり前だというのに慣れているから、先取り抜きのところで理解できないのかもしれない。でも、「効用価値」を先取りすることはどこか飛躍というか転倒している。柏木博「20世紀はどのようにデザインされたか」は「4、20世紀・建造物の夢」の「ツェッペリン広場」。ぼちぼち読了。ん、いまさっき見た「Ergo Proxy」15話がややこしい。いきなり主人公が回答者になったクイズ番組の体(てい)のストーリーが始まる。オープニングの歌も「問題、この歌のタイトルはなに?」という出題に続いて流れ、現実のCMもクイズ番組司会者の「ひとまずCM」みたいな感じで入ったっぽい。設定としては、このクイズ番組は司会者であるプラクシー(のなかのひとり)が、全世界になにかを伝えるべく衛星放送をしている、ということなので、CMというものはないのかも。だから司会者であるプラクシーの現実のCMにいくときのセリフは「それじゃ、いつものあれ」みたいな感じで「CM」とは言わなかったような。でも物語中のCMにいくときは「じゃあ、CM」って言った気もする(しかし物語中のCMにはいかず、ストーリーはスタジオ内で進行する)。で、さらにおかしいのは、物語中、いままで知らされていなかった設定(というか見ている私たちにとっては「謎」)をクイズ番組の問題として明るみにしてしまうことで、このやり方はいったいどうなのか。この15話単体としてはけっこう面白くはあるけど、ストーリー全体の流れとしては、どうなのか。芸を狙いすぎるあまり芸がないといえなくもないし、苦し紛れにみえなくもない。しかも、なんだか分からないが司会者のプラクシーは「最後のボス」的なやつがいることをほのめかして、それの居場所まで教えている。どこかロールプレイング・ゲームっぽいとは思っていたけど、こうなってくるとかなりRPGっぽい。プレイヤーが強引にゲームのストーリーに従わされる感じとか。登場人物のセリフとか状況によって、次のイベントに進むことを強く促される。新たな情報の知らされるきっかけがとにかく唐突で不自然。なにもかもが最終回=解決のためにつくられていて、いろいろ飾り立ててあっても結局はごく狭い世界のごく単純な起承転結でできているというか、このまえの土曜にちらっとみたハリウッド映画もそうなのだけれど、結局はなにもかも解決し、主人公の男女は助かり、始めは反発しあっていた男女も結ばれる。なんかもういろいろややこしいことは起きるのだけれど、それが最終的には解決してしまうことを思うと、見るのも面倒臭い。もちろんデッドエンドもあるけれど、そんなことはどうでもよくて結果から逆算するという、「要素の配置」の仕方が問題なのだ、ろうし、そもそも、「要素を配置する」という考え方が問題なのかもしれない。おっ、明後日の土曜日に国立国際美術館の「新国誠一の<<具体詩>> 詩と美術のあいだに」が観覧無料だ。行こう行こう、そのあとプラネットプラスワンでストローブ=ユイレを観よう。観たことないので。国立国際美術館に行って17時までに中崎町のプラネットプラスワンか、行けるかね。