今日、帰りに三番街のインデアンカレーに行こうかどうか迷っていて、その前はまたNuのタワレコに行っていてまた何も買わず試聴だけして出る。インデアンカレーに行くかどうか迷う猶予を得るためにひとまず紀伊国屋書店に寄ってみると、「岩波講座 哲学 07 芸術/創造性の哲学」というのが出ていて、中ザワヒデキさんが「芸術の方法と方法の芸術」という論文を寄せている。ちらっと立読みしたけど、面白そう。最近の平間君のアプローチはどこか中ザワヒデキさんに近い。いつだったかなに新聞だったか忘れたが、中ザワさんの「金額」シリーズの記事が載っていて、この作品群は「友愛数」に基づき(「友愛数(ゆうあいすう)とは、異なる2つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数をいう。親和数とも呼ばれる」wikipediaより)、硬貨の「数」と「金額」を指定し、そのルールに従って硬貨を用意する、というもの。その根拠を問うことができない(かに見える?)数学的なルールを当てはめることによって、恣意を超えるかに見えるけれども、ルールを「当てはめる」こと、つまり「ルール」そのものは媒介なしには知覚できないためルールと媒介とを関係付けることが必要になってきて、そうなってくるとどうしても恣意性はついてくる。というか、数学的ルールと数との結びつきに恣意性はないが(数学的ルールは数なしではありえないため)、数なしではありえない、しかし逆にいえば数だけで事足りる数学的ルールを、数を媒介にしてさらに他の媒介と関係付けることはどうしたって恣意的だと言わざるを得ない。たとえば、友愛数は数だけで成り立つけれど、数を共通項に、友愛数と硬貨を結び付けることに恣意性がないかといえば、なくもない。簡単にいえば、友愛数という概念それ自体は別に硬貨という形式を要請するわけではない。というふうにちまちまと詰めていく思考様式じたいもまた、自己目的化した純粋さ(それゆえ不毛な)の現れでもあるといえるのではないか。そして、みるべきところは別にあるのではないか。逆にいえば、友愛数と硬貨が結び付くことの発見こそが中ザワヒデキさんの芸術行為ということでもあるし、別に恣意性を問題にしているわけでもないのかもしれないし、少なくとも作品外にルール(という名の擬似根拠)を持つ作品のなかでは、かなり面白い作品だし。こういう方法の作品においては、ルールそれ自体、ルールの面白さよりも、見せ方、つまりルールとルールを媒介するメディアの「結びつきの面白さ」を問われるのであって、ルールとメディアのあいだの二重媒介性を意識しなかったり、ルールをそのまま見せようとしてメディアが透明であることを前提にしてしまったり、するとまずいような。この前、平間君ともはなしたけど、メディアというか、概念なり表現なりの「支持体」が透明であると前提するのは幻想でしかないだろうし、こういうのはどこか神秘性をも帯びてしまう。純粋に観念的なものをその純粋性を失わずに「作品」として提示できる、という態度はやはり現実的ではない。「作品」によって引き起こされるあらゆる事態のほとんどを「例外」・「非純粋」として徹底的に捨象するのであれば別だけれど。それでなにが残るかといえば、作者と作品の閉じたループだけ。誰もそこに入り込めない。すくなくとも中ザワさんの作品にはそういう不毛な純粋性は感じられない。あと、こういうもろもろの事情は平間君の作品にももちろん当てはまるし、恣意性を問題にする作品・芸術行為全般、詳しくいえば作品の根拠が作者(という個性/という歴史)に還元されてしまうことを問題にする芸術行為全般、にも当てはまる。12月20日の映像と音のイベントは、もともとはotosoraでやれないかとよなさんから提案があったもので、時間の問題やらあって実現せず、よなさんがひとりでやろうとしているところに私が混ぜてもらったかたち。このイベントはおおまかにいうと、FLOAT外側の壁に隣の駐車場というか空き地から映像を投影し、外で寝袋に入って映像と音を楽しもう、というイベントで、音はFMトランスミッターで飛ばして、ラジオ+ヘッドフォンで受信したり、受信機+ヘッドフォンアンプに各自のヘッドフォンを繋いだりして聴くようになっている。演奏者はFLOATの2階で演奏してその模様は2階に設置されたプロジェクターから隣の工場の壁に投影される。1階の天井にも外に投影されるメインの映像と演奏者の映像のふたつが投影される。というわけで、わりかし形式ががっちり決まってて、あとはそこに入れる内容を考えるしかない、ともいえるけれど、イベント2週間前によなさんと話したあとに、ビデオカメラのフィードバックを活用できないかとか、壁の内/外をなにかしら使えないかとか、「壁に投影」するというときの壁をスクリーン以外の用途に使えないか、とかいろいろ考えてはみたものの、決定的なアイデアは出ず、しんどくなったので1週間前くらいにいったん忘れることにする。と、前日までなんにも思い浮かばず、ひとまず「凝ったことはやらない方がいいかもね」程度のメールをよなさんに送ったあと、ひたすら考えたり、youtubeでいろんな動画を見ている音をテープレコーダーにライン録音したり、シムシティクラシック・ライブをしていたら朝が来る。よし、もう起きとこうと思いつつ9時くらいに寝てしまって、12時ごろによなさんから電話があり、もともとあったファミコン案・テレビ案も踏まえて、ギリギリまで考えてみるとのこと。前日の19日によなさんはsunsuiでの展示(raster-notonのイベントと同時開催の)に参加していて、ファミコンのコントローラーを水の落下でランダムに制御する、という楽しげなものを開発したらしいので、それに期待しつつ、それを活用する術を考えるも、出ない。平凡社ライブラリーカフカ「夢・アフォリズム・詩」とテープレコーダーふたつ、ラジオを持って家を出る。カフカは朗読に使えるかもしれないから。テープレコーダーとラジオはなんか使えるかもしれないから。とりあえず、家を出てからFLOATに着くまで断続的に録音してみる。16時半くらいにFLOATに着き、会場設営で主催者のslonnonさんたちが忙しくするなか、その模様を録音しつつ、よなさんと策を考える。この段階で決定した案は、ファミコンのコントローラーを水の落下でランダムに制御する装置を改造して、複数の映像ソースの切り替え出力を水の落下でランダムに制御し、そこに入力される映像ソース、テレビ・ファミコン・デジカメ・DVカメラ、の操作を私がして、音をよなさんがする、ということに。イベントが始まってみて、面白かったのは、ヘッドフォンで音を聴いているため、傍から見るかぎりはライブイベントというより鑑賞会という感じで、ヘッドフォンで音を聴きながらもみんなおしゃべりしたり、ざっくばらんでよい。演奏者の姿すら映像ごしだからライブ感がなかったのかもしれない。ライブのネット中継みたい。「中継」だけど「録画」と見方は変わらないというか。もちろん、演奏と映像の内容がそう感じさせている、というのもある。私たちはどうか分からないけれど(自分で自分のパフォーマンスは見れないから)、トリのslonnon + sonsen gocha baccoのおふたりは演奏・映像ともに比較的ライブ感があったような。クラブ的音楽+VJ的映像じゃなかったからかしら。とはいえ、そもそもクラブ的音楽とVJ的映像にロック的な意味でのライブ感なんてないし求めるもんでもない。イベントが始まって、よなさんに借りたラジオとイヤホンで演奏を聴いたり、そのへんの人の会話を録音したり、途中で大谷君が現れたので、大谷君と私の会話も録音したりしているあいだ、よなさんは必死に水の落下で映像ソースを制御する装置をつくっていたが(最初は基盤、次に電子ブロック)、時間が足りずに急遽ふつうのAVセレクターを買ってくることになり、車でお出かけ。AVセレクターを二個買ってきた。AVセレクターフィードバックをやってみたけどなにも起きなかったし、壊れたファミコンのノイズ画面もプロジェクターに入れると信号なし扱いにされ青い映像になるので、最終的なやり方は、AVセレクターひとつに、テレビ・壊れていないファミコン(ソフトは、マリオとなんかペンギンのと「バイオ戦士DAN―インクリーザーとの闘い」ともう一個あったような)・デジカメを繋いで私がいろいろ切り替えつつ、よなさんがコンピュータで演奏、私もテープレコーダーをとりあえず繋げてみて朗読用マイクも用意してみた、というものだったのだけれど、演奏を開始してみたらば、なかなかよなさんの音が出ないので、映像はテレビにしといて(明石屋さんまさんが出ていたような)、とりあえずテープレコーダーを再生しながら巻き戻し、早送りとかしてみたのだけれど、どうやらミキサーがおかしいのかよなさんのコンピュータからの出力が出ないので、途中からよなさんはコンピュータを諦め、エレアコ(エレキとアコースティックの中間というか、アコースティックギターにピックアップがついたやつ?)をミキサーに直接繋ぎ、弾いていた。なぜか音はディストーションを繋いだみたいに歪んでいた。私はといえば、とりあえずさっきのいろんな会話を録音したテープを流しっぱなしにして(会場設営で忙しくしているslonnonさんたちの声とか、他の人の演奏中におしゃべりしているお客さんの声とか、私と大谷君の会話とか、が流れている)、マリオをバグらせてみたり、デジカメの動画機能でコミック版ナウシカを映してみたものの解像度が低いのかセリフは読めない。「バイオ戦士DAN―インクリーザーとの闘い」をファミコンに入れて電源を入れ、オープニングが流れるなか、バグらせるべくカセットをガコガコ揺らす。地味にバグる。あんまりバリエーションがないので、プレイしてみることにするが、よなさんがドンキで買ったファミコンもどきのコントローラーには謎の連射ボタンがついていて、どうやらそれを押してしまっていたらしく、「バイオ戦士DAN―インクリーザーとの闘い」の横スクロール画面の上にあるスコアとか表示している部分ががなぜか高速で動いている。DAN本人の動きもなぜかカクカクしていて、スムーズに動かない。ちなみに「バイオ戦士 DAN」で検索してみると、攻略法を紹介しているページが出てくる。(http://members.jcom.home.ne.jp/minagi-t/kouryaku/dan.htm) 変なゲームだとは思っていたけれど、wikipediaによると『レトロゲームユーザーからはバカゲーの一つとして知られている。』らしい。このゲームをまともにプレイしてみるだけの方がひょっとしたら面白かったのかもしれない。そうこうしているうちに、AVセレクターの映像ソースをセレクトするためのボタンをふたつ同時に押すと、それぞれのソースの映像が混ざりつつジラジラっとなるのを発見して、ときおりやってみるが、それにもすぐ飽き、演奏というか、音が、テープレコーダーに録音された会話+よなさんの爪弾く歪みギターだけなのもどうかと思い、テープレコーダーとラジオを繋ぎかえて、ちょっとだけFM電波を介したフィードバックをやってみたけど面白くもないので、FMラジオに合わせる。私が持ってきたラジオはどうやらモノラルらしく、ラインで繋いでも左チャンネルだけしか音がない。なので、よなさんの爪弾く歪みギターが左と右チャンネルから聞こえるなか、FMラジオが左チャンネルからだけ聞こえる、という状態。一回だけ気まぐれにAMに切り替えてみたところ、終演後、あるお客さんから「FMがAMに切り替わったみたいなところがあったね」と言われたけれども、「みたいな」ではなく、本当に切り替えただけです、しかも気まぐれに。。「バイオ戦士DAN」の連打ボタンによる謎の高速スクロールも「そういう編集」だと思われていたりして、つまりなにもかもが計算づくだと思われていたりして、ほんとうにこのお客さんはすごい。意味不明の追い詰められパフォーマンスですら勝手に楽しんでくれている。なんか分からん会話が流れるなか無音のファミコンって変態やな!良い意味で!とのこと。ただ追い詰められていただけですよ、、と本当のことを言うとさらにお喜びの様子。世の中にはすごい人がたくさんいる。AMに切り替えてまたすぐFMに戻したあと、マリオを真面目にやってみようと思い立ち、マリオを真面目にやってみるものの、意外にできなくて距離を測れずクリボーに当たって死んだり、穴に落ちたりして、1-1すらクリアできずにいたら、穴に落ちた瞬間に1階から歓声(?)が聞こえたので、おっ、受けた!と思う。FMからはドリカムのクリスマスソングが流れている。1回ゲームオーバーになって、再度はじめてまたクリボーでやられたあたりで、今日の一番手に出演したphocsyさんが2階にやってきたので手招きをして呼んで、マリオをやってもらう。phocsyさんがさくさく進むなか、そのプレイ姿をデジカメの動画機能で映すべく、コントローラーを持った手元→顔→マリオ画面→手元→顔→マリオ画面の順に映像を切り替えてみる。時々テレビとマリオ画面をジラジラミックスして妨害してみたり。とかやっていたらslonnonさんからそろそろ終われますか、とのことなので、phocsyさんがやられたら終わろうということにしたけれども、なかなかやられなくて、2面のワープゾーンに入ったところで、やむなく終了。なんだかもうほんとうによくわからないパフォーマンスで、自分たちの計画性のなさに反省するとともに、slonnonさんほかスタッフのみなさんとお客さんには申し訳ない気持ち。なので、トリのslonnon + sonsen gocha baccoの前の休憩時間、というか、賞品が当たる抽選大会中に、guitar noiz orchestraさんが終わったあとの休憩時間に辻並さんが持ってきてくれたプレゼントのおにぎりと卵焼きを、配る。私の友達が作ってきてくれたんですけど、よかったらどうぞ、おにぎりと卵焼きがあります、このおにぎりはジャコっぽいやつでこっちはタケノコっぽいやつです、と言って配っていく。この日のお客さんはみんな知らない人ばっかりで、30人はいたかしら。はしっこから順に配っていくと、ひとりだけ「おいくらですか?」と訊いてきたお客さんがいて、いえいえタダです。phocsyさんもTDCさんも映像と音の何人かのユニットかと思いきや、どちらもひとりでコンピュータを使い映像と音をやっていた。guitar noiz orchestraさんは音だけの人みたいで演奏している姿をメインの映像でも流していた。背中を曲げて弓でギターを弾くときに、ものすごく動きがゆっくりなので、静止画というより投影している壁のシミみたいに見えなくもなくて、面白かった。加茂欣秀さんはオシロスコープを持ち込んで、コンピュータからの音で変化するオシロスコープの画面を壁に投影していた。そういえば、コンピュータを使う人はみんなMACだった。slonnonさんはギターとエフェクター大量。映像のsonsen gocha baccoさんは、黒い箱の底にビデオカメラを取り付けて透明のアクリル板みたいなのでフタをした自作の機材と、たぶんリアルタイムに編集するアナログ機材も使っていたっぽい。もともと絵を描く人のようで、自作機材のアクリル板に乗せた紙に絵を書きながら懐中電灯で照らして光を当て、カメラの映り方に変化を持たせる。今日は帰りに阪急オアシスで「甘味ぶどう酒」と書かれたラベルに惹かれて赤玉スイートワインというのを買ってみるとほんとに甘かった。でもこのくらい甘い方が私にはちょうどよい。コップに入れてレンジで温めたら、よりアルコール感が増してちょっとむせた。ピザポテトも買った。阪急電車のなかでドニ・ユイスマン「美学」を読み進めたけれど、けっこう飛ばしていくな、この本。いきなりこれ読んでもなんのことやらさっぱりかもしれない。カント「判断力批判」はいま読んでるけど、ヘーゲル「美学講義」も読んでみたいところ。夏あたりに神大の図書館にもぐり込んで、ちょっとだけ読んだけど、序論だけでかなり面白かった記憶が。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20080528