いまやっている田村正和さんが出ているビール?発泡酒か、のCMが変。麦とホップっていう商品なのだけれど、いちばん最初のCMからやたら「田村正和が、ビールと間違えた」と言っていて、なんなんだろうと思っていたら、なんなんだろうというか、ビールと間違うおいしさ、ってことなのは分かるけど、最近になって「私、田村正和は、サッポロさんに「間違えた」と言わされているわけではない」というCMをやりはじめて、なんかややこしい。「マネージャーに言われるまでビールと間違えていた」らしいけれど、それはマネージャーがビールか発泡酒か言わないで飲ませたからで、これ、今度出演するCMの商品でサッポロの発泡酒です、って言って飲ませたら、いちいちビールと間違うこともないわけで、「田村正和がビールと間違えた」っていう売り文句を謳うために、田村正和さんがビールと間違うように仕向けたことは間違いないけれども、とはいえ実際に間違えたことには変わりないのか、結局はそういう「設定」なだけなのか、はお茶の間の誰にも分からない。ちょっと面白い売り文句だとは思う。ウソだとしても。私はビールが嫌いなのでビールと間違ううまさかどうかはさっぱり分からないと思う、飲んだとしても。姉ちゃんが洗濯したタオル類をランドリーに入れていて、三宮に行く姉ちゃんから引継ぎ、ランドリーへ乾いたタオルを回収に行く。クリーニング屋とコインランドリーが合体していて、コインランドリーのイスにはおばちゃんがひとり座っている。すでに回転し終わっていたドラムからタオルと姉ちゃんのベッドのシーツを取り出し、スーパーでお菓子とか調味料とかの賞味期限がせまっているのを安くして売っているのをたまに見かけるけれど、そういうのが乗っているちょっと大きめのカゴの足に車輪がついたようなものがランドリーにはふたつあって、そのひとつにタオルをまず入れてから畳んでいると、先客のおばちゃんがやたらにもうひとつのカゴも使えと言うので、必要ないのだけれどとりあえず姉ちゃんのシーツを置く場所にすることにする。家に帰ってから畳むのは面倒なので、いつもランドリーで畳むようにしていて、まずバスタオルから畳む。先客のおばちゃん曰く、うちのだんななんかグルグルって丸めてポイッと袋に入れて持って帰ってきてボーンと押し入れに入れてしまう、とのこと。それじゃあ使うときに困りますね。料理もできないらしく、今日は肉じゃが作ったる、と言ったかと思えば、なかなかできあがってこなくて、様子を見に行くと、切ってないじゃがいもとたまねぎ(皮はむいたのか?)、ふたつに切っただけのにんじん(皮はむいたのか?)(とお肉も入れたのか?)を(味付けして?)ひたすら煮ているだけで、それじゃ炊けへん、とのこと。そのあと普通サイズのタオルを畳んでいると、先客のおばちゃんの乾燥も終わりバスタオルらしきでっかいタオルを取り出したかと思えば、グルグルっと丸めて持ってきた袋に入れていた。家で畳むことにしているらしい。うちも(だんなに)似てきたかもしれん。バスタオルと普通サイズのタオルを畳み終わり、お先です、とまだ作業中の先客のおばちゃんに声をかけクリーニング屋兼コインランドリーを出る。ほいで、自分の洗濯をして、チャリで外出。チャリに空気を入れる。なぜチャリかというと、六甲道をさらに下ったところにある古本市場に行くつもりだからで、あそこまで行くのに徒歩だとちょっとしんどい。ドニ・ユイスマン「美学」が400円。古本市場には、諏訪哲史「アサッテの人」が7冊、「りすん」が1冊。古本市場を出たところで、妹から帰宅したとの連絡があり、姉ちゃんも三宮から帰ってくるらしいので、六甲道をちょっと上に行ったところの焼き鳥屋に行くことにして、姉ちゃんを待つあいだ、宇仁管書店へ久しぶりに行くと、店主のおじさんと違うおじさんが話し込んでいる。大江健三郎さんは政治に関わりだしてからダメになったとか、若い人は大江健三郎を読まない、村上春樹は読んでるけど、とか、80年代のあたりからいままで沈黙を守っている人こそが信じられる、とか、そういうことを店主ではないおじさんは言っていた。私も大江健三郎は読んでいない。実家のトイレにあったエッセイみたいなのはトイレの最中に読んだけど。ノーベル賞発表のときのエピソードとか読んだ気がする。宇仁管書店で新書のあたりを眺めていると、姉ちゃんから着信があり、焼き鳥屋はいっぱいとのこと。なので甘夏食堂かねぎ作かということになる。いまこちらに向かっている妹にお好み焼き屋さん(厳密にはねぎ焼き屋さん?)に向かうとの連絡をしていたので、ねぎ作に。ドニ・ユイスマン「美学」の序文みたいなところの注で著者はこんなことを言っている。

本書では原則として哲学者のみを論じた。実作者については、彼がたとえ明白なあるいは潜在的な美学、暗黙のあるいは表明された美学をもっていても、これを除外した。ミケランジェロからポール・ヴァレリーまで、ボワソーからウジェーヌ・ドラクロワまで、レッシングからロダンまで、その美学が芸術一般の理論よりも特定の芸術に重点を置くものはすべて除外した。

つまるところ、芸術の哲学としての「美学」と、個人の思想信条もしくは創作の方法論といったような意味での「美学」とはまったく違う、ということかしら。といっても、それ自体完結した「学問」としての「美学」が、実際の芸術の受容、または実際に「感覚」すること一般に関わりを持つことなんてできるのだろうか。芸術と美学と(批評も?)のあいだで「つくること」と「かんじること・かたること」の循環構造を作ってしまってその循環構造=世界に自閉してしまうだけのような気もする。気のせい?このまえテレビで見たイチローのインタビューで感じたのはイチローさんと吉村光弘さんはどこか似ていること。顔じゃなくてしゃべり方が。WBCで共にプレーする日本の若手選手の誰やったか誰だかは忘れたが、顔つきがいい、と評価するしゃべり方がどことなく似ている。