ネットでの独り言の良さといえば、話題がいきなり飛んでも誰にも文句を言われないというか、「空気を読まない」とか「天然だから」とか、分かりやすいラベル付けをされなくて済む、すくなくともそれを直接言われることは少ない。されているとは思うけど、別に直接言われなければどうでもよいし、言われたとしても「ひとの連想とはそういうものだ」とか言えばひとまずどうにかなるような、ならないような、といっても、ネットで何か書くという独り言は現実での独り言や現実での誰かとのおしゃべりに比べて、格段に飛躍が多く、私のばあい「話しことば」と「書きことば」とが相互に影響しあっている、というのがひとつにあり、話しことばと書きことばがお互いを検閲したりとかそういう対立関係ではなく、どちらかといえば共犯関係にあるような。いや、どうやろか。話すように書いている。けれども、話しことばを書きことばに置き換えているわけでもなく、書くように話すのを書いていたりもするわけで、そのへんは未分な感じか、どうか。「話し」と「書き」をこういうふうに対応することじたいは、一般によく思われているような、「感覚と思考の対立」、というよりもどちらかといえば、「ことばにならないもの/ことばになるものの対立」が、極度の「ことば不信」というひとつの立場により要請されたものに過ぎないんじゃないか、というのと似ているやもしれんぞ。別に似てないか。あと、飛躍の多い理由のもうひとつには、話すように書いてはいるものの、話し相手がいるわけではない、ということで、話し相手との相互の反応によって、話題があるひとつの軸を持つ、というようなことがない。話し相手は誰か特定の人ではなくて、「誰か(の不在)=誰でも」であることそれ自体もしくは自分自身なので、こうなるのだけれど、「誰か=誰でも」それ自体と話す場合と、自分自身と話す場合では、違いもあるだろうし、「自分の書いたこと」と話し合う(手段として「書く」)、というのがいちばん近いのかもしれない。たとえば、ここ何日かRe-TATTAKAさんとお話しさせてもらっているけれど、厳密には「Re-TATTAKAさんの書いたこと」への反応としての「自分の書いたこと」と話す、みたいな感じなのか。なんかだんだん「話す」という語が実体を失って(か、逆に「仮想的に」実体化されて?)「比喩」になってきているような。


たとえば、畠山美由紀「若葉の頃や」のPVは海辺と思しきところ(砂浜っぽい)で、なぜか盛装した畠山美由紀さんが固定されたカメラの前でただ歌っているだけなのが、逆に面白い、海が出てこないのがいい、と思っていたらば、最後に出てくる。このPVを見ていて改めて思ったのは、映像と音声のズレで、といってもタイミングのズレじゃなくて、海辺で歌っていて、髪の揺れやカーディガンの揺れから風が吹いていることが分かるのに、風の音が一切しない。だからリアリティがないとかリアルがどうとかナチュラルがどうとかいうのは気持ち悪い。ずっと前に実家というか生まれ育った家に帰っているときに、スペシャかなんかでとあるバンドのインタビューをやっていて、「俺らはリアルを追い求めている。だから今回のアルバムのタイトルは「REAL」だ」とかいうようなことを言っていて、そんなこと言ってないかもしれないが、http://d.hatena.ne.jp/k11/20070927でそれについて書いていて、「自分の心に響くものがリアル」というのは言っていたと思う、たしかに。リアルリアル言った果てにナチュラルにたどり着き、非ナチュラルなもの=不自然なもの=非本質的なもの??を排除排除、というのは、それはそれでどうなのか、どうかしら。自然に不自然なものはどうなるのか。いや、それはたんなる不自然だ。昨日の夜にやっていたテレビ番組で5人くらいの一般女性のなかに何人か整形美人がいます。さてそれは何人で何番でしょう?それぞれの一般女性の予想もあり、1番と5番が怪しまれている。でも実際には2番と5番。1番の人はフツウに可愛いのでかえって怪しまれた格好。ありゃ目をいじっている、とか。5番の人はあからさまに怪しくて、不自然で、だからこそ違うんじゃないかとも思えるが、目と鼻を整形している。でも整形前でもじゅうぶん綺麗。と思ったら、この方、化膿終い、じゃない叶姉妹に憧れていらっしゃるらしく、不自然こそ美!
昨日の夜に、外から女性の喚き声が聞こえてきて、その聞こえ方から、そんなに近くはなさそう。泣き喚きながら誰かを責めているらしく、その喚き声はしばらく続いていて、おっ、これを録音しよう!と思ったちょっと前に、近所迷惑だ!だまれ!という中年男性の声がどこからか聞こえ、そのあと、おっ、これを録音しよう!と思ってテープレコーダーを準備したりしていたら、喚き声は止んだ、という一部始終を妹と姉に話してみたところ、その「近所迷惑だ!だまれ!」はおそらく神の声だ、とのこと。神港教会の11月30日(日)10:30〜12:00に行われた特別伝道集会の主題は「自分を捨てて命を得る」。主題のほかには、説教者の名前も書いてあったけれど、覚えていない。あと書いてあったのは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」マタイによる福音書16章26節。昨日ブックファーストで、いしいしんじ「四とそれ以上の国」というのが出ているのを発見してペラッとめくってみたら、イルクーツク2に収録されていた「塩浄瑠璃」が「塩」に改題して収録。いしいしんじさんは「ぶらんこ乗り」と「ポーの話」と「塩浄瑠璃」しか読んだことはないけれども、最近のはなんだか妙な凄みがある。ほんわかやさしいおはなしが好きな人は初期の方がよいのか。「塩浄瑠璃」は「書かれたこと」によって「書かれなかったこと」を指し示すような書き方をしてある箇所が多くて、つまり、不確定なままの細部が多くて、とはいえそれは不明瞭なわけではなくて、明瞭に不確定、とかいうのは当たり前のことかもしれない。実体としては存在しない、というか、するかしないか分からないが、伝聞による痕跡としてのみ存在するスティーマーなる登場人物(かどうかすら分からない。人物なのか動物なのかなんなのか?)とか。そういう書き方にいしいしんじさん独特の割と重めな物語が乗っかるので、妙な凄みがある。というわけで、築港ARCのアート情報ポッドキャスト「ARCAudio!!」の11月最終週の分が更新されました。というわけで、「アートに興味がない人とアートについてはなしてみよう」の最終回が更新されました。→http://www.webarc.jp/2008/11/29154854.php アサダ君の目には、「アートに興味のある」私が「アートに興味のない」人(たち)に合わせているようにも見えたそうだけれど、とはいえそこに現れるギクシャク感になにかある、との印象とのこと。どうだろう、そんな合わせた気もないけれど、でも確かに合わせてはいる、ほとんど無意識に。でもこれはいつもやっていることなので、なにも今回に限ったことではない。うーん、でも、「合わせる」っていうよりも、お互いの個性というのか自我というのかそういうのが混じり合って、その「会話」という場(時間と空間という意味での)になる、もしくは「会話」の生成そのものになる、っていう方が近いのではないか。だからこそ、個性というのか自我というのかそういうの、の境界を維持したままの、たんなる情報(情報とは常に、過ぎ去ったもののこと?)の交換だけの会話はつまらないのではないか。私は自分を持たない、私はあなたである。私は鏡ですらなく、ガラスである。向こうが透けつつ、こちらが反射する。しかし物体として存在してもいる。詩人だなあ。ケンタッキーに行き、ガラスの自動ドアが開き、カウンターの前に立つ。カウンターの上に置いてあるメニューシートを見る素振りはしているけれども注文するものは決まっている。妹が持って帰ってきたクーポン券のなかのチキンフィレセット590円。カウンターで応対するのはネームプレートの名前の上に「店長」という肩書の書かれた50歳くらいの男性社員。ケンタッキーフライドチキン六甲店では「店長」、家では、結婚していれば「夫」、子供がいれば「父」、二世帯同居であれば「息子」、結婚も親との同居もしていなければ、家では、「○○○○」という名前の男性。分業化とそれに伴う専属化が進んだいま、ひとは少なくともふたつに引き裂かれていて、職場や家での自分と、職場や家での自分を可能にする自分(いわば剥き出しの自分)。言い換えれば、いくつかの社会的な「役割」としての自分と、その「役割」を遂行する身体としての自分。そしてこの事態を引き起こしているものは、なんらかの「役割」を必ず持たなければいけない、というルールで、これはたぶん内面化されているがために意識すらされないルール。「生きがい」というとき、それは「役割」の遂行とそれに対する他者からの感謝を指していて、それ以外には、「役割」の遂行それ自体、いや、厳密には能率的で合理的な遂行それ自体を目的とするようにもなる。つまり、「役割」の遂行の「段取りのよさ」を目的とする。なぜかといえば、段取りがよいとは仕事ができることである、また、仕事ができるとは社会人(仕事人)として優れていることである、ゆえに、段取りがよいとは社会人(仕事人)として優れていることである。このことの弊害としては、なにをどう遂行するか、の「どう」ばかりが問題にされて、「なに」への配慮がおろそかになる、ということ。創造性がなくなる、ということでもあるかもしれない。なにかあたらしいことに取り組むとき、最も効率がよく最も合理的な段取りをどのように組んだらよいのだろうか。とはいえそれはバランスの問題でもあるかもしれないし、これ以上ちいさくできない!というくらいのミクロな「段取り」モジュールの組合せで、たいていの段取りは組めるのかもしれないが、そんなことは分からない。
はなしがズレている。分業化とそれに伴う専属化そのもの、つまり専属化の単一性を問題にするのであれば、なにに専属するか、はあまり問題にならない。専属するものが会社であろうが芸術であろうが。なにか「ただひとつのもの」に専属すること、「本業」=「やりたいこと」を持つのが好ましいとされていること自体を問う必要がある。「ただひとつのもの」に専属していれば、それ以外はたんに「それ以外」で興味の外になる。ここで、その「ただひとつのもの」が生業(生活のためのお金を得るもの)であれば、まだマシだが、そうでない場合、「本業」以外で生計を立てないといけなくなり、「本業」と「生業」のあいだで葛藤することになる。ほいで、その葛藤の一例として、Re-TATTAKAさんから拝借した「サラリーマンであり作家(美術作家)にならなければいけない」という命題。これがなにを意味するかというと、簡単にいえば、サラリーマンと作家との二束のわらじということ。一方で生計を立て、一方で自分の表現を貫く。たいていの場合、芸術(ここではひとまず「自分の表現を貫くこと」としよう)ではなかなか生活できない、つまり「自分の表現を貫くこと」ではなかなか他人からお金を貰えない。それがなぜかまでは大変なのでいまは踏み込まない。他人がお金を払ってまで欲しがる表現を為すのは難しい、というくらいで。あとは、芸術というものがどうしても「売り買い」だけでは捉えきれない、っていうのもあるかもしれない。ほいで、いまの時代、ごく普通の人であれば、生計を立てるためには、ある程度の時間を費やして、つまり、ある程度の労働力(頭を使ったり、身体を使ったり)を売らなければ、生活のためのお金を得ることができない。重要なのは、ここでいう労働力というものが単に体を動かす労働だけを指すのではなく、考える労働も指すことで、つまり、体のエネルギーを売ると同時に、思考のエネルギーも売ることになる。ではそのエネルギーはなんに使われるか。さきの命題でいえば、サラリーマン労働に使われる。そして一般的にサラリーマンといったときの労働は、芸術とは一切の関係を持たないし、創造的な労働(仕事)という概念は存在するが、芸術的な労働(仕事)という概念は存在しない、たぶん。現代でいう労働(仕事)とは、社会的なものである以上に経済的なものであって、なにより、社会に働きかけてお金を貰う、というより、お金を貰うために社会に働きかける、ようなところがある。よって、労働(仕事)による社会への働きかけも、それがお金を発生させる限りで、経済的需要の範囲でのみ行われる。といっても、その範囲を逸脱して新たな需要を生み出すのも労働(仕事)ではある。そういうのが創造的(でた!クリエイティブ!)な労働?芸術という行為はおそらく、社会のなかの経済的労働のカバーしている範囲「以外」の部分へ働きかける。というふうに考えていくと、芸術と労働(というよりも経済的行為としての労働=経済)が対立するのはひとまず理解できる。そして、芸術を生業(生活のためのお金を得るもの)としない(原理的にできない?)芸術家において、本業としての芸術、と、生業としての労働=仕事、が対立するのも同様に。生業としての労働=仕事に芸術は含まれ得ないと。そしてまた、さきほどちらっと書いたようなエネルギーの観点からも、芸術と労働(仕事)は対立する。私たちはまず生活するためのお金を得るべく労働(仕事)をするわけだけれど、そこで提供されるのは労働力=体を動かしたりものを考えるエネルギーで(時間って言い換えてもいいけど)、そのエネルギー(時間)は芸術に使われるものでもある。というか、人間活動一般に使われるものでもある。だからこそ、「生業・労働・仕事」と「芸術」のふたつへのエネルギーの配分(働き方)が問題になる。芸術を追求しつつ、バイトか派遣社員契約社員か正社員か、などなど。そしてここで難しいのは、バイトや派遣社員にもそういうところはあるけれども、正社員ともなると、芸術家に限らず、自分の持つすべてのエネルギーを仕事に費やすことが求められる、ということ。かつて3年ほど中規模のデザイン会社に勤めた個人的な経験からいっても(バイトだけど。正社員に、というありがたいお話しもあったけれど、いままさに書いているような事情もあって辞めてしまった。いまよりも「若かった」し)、こういう要求は暗黙のうちにある。労働力には体を動かすエネルギーだけではなく、考えるエネルギーや責任をも含まれる。量・質、ともにかなりのエネルギーを費やすことが求められ、実際そうしなければ、仕事で認められもしないし(責任を果たせないし)、量をこなしていくことすらできない。とはいえ、仕事以外のこと(ここでは芸術)に大きな興味(エネルギーの方向)があると、どうしても仕事にすべてのエネルギーを使えないし、なにより「使うべきではない」と思ってしまう。本業=芸術以外に創造的なエネルギーを使いたくないから。そしてなにより、仕事でいう創造性というのは、言うまでもないけれど、「自由」なものではない。クライアントがいたり、お金が絡んできたり、チームプレイが原則だったり、して、独りで芸術を創作するように「自由」に創造的(クリエイティブ)な仕事はできない。創造的(クリエイティブ)な仕事とは現実の様々な問題をいかに「解く」かだけれど、芸術は現実にどのような問題を「問う」かであって、良くも悪くもそのような違いがある(もちろんどちらが優れているとかそういうことではない)。このような理由から芸術家は「あえて」正社員よりも比較的エネルギー消費や責任の少ないバイトや派遣社員で働く。しかし、エネルギー消費や責任の少ない仕事は社会的な、というか会社内での地位も低い。会社という組織において、正社員とバイト・派遣社員は、あからさまな差別は受けなくとも厳密に区別される。正社員は正規の就職活動を生き抜いて、社長=会社の承認を得て就業している。一方、バイト・派遣社員は正規の就職活動を通らずに、たいていは就業部署の部長クラスの承認で就業している。もちろん会社の規模にもよるけれど、会社の頭・顔である社長にすら知られず働いている、というのはよくある。どうやら「就職活動」という試練をくぐりぬけたかどうかでまず区別されるらしく、正社員から言わせれば、それは当たり前のことのようだし、それもそうだろうと思う。やっぱり、正社員とバイト・派遣社員の「差」はかなり大きい。福利厚生やボーナスの有無、というかたちでその差が出ることがあれば、任せられる仕事の質で出ることもある。仕事の質という面でいえば、「バイト・派遣社員には責任がない」ことにおいて、会社・労働者双方の利害が一致している。バイト・派遣社員にとっては、責任のある仕事を任されないで済むから気が楽、というメリット。会社にとっては、責任のある仕事を任せられないが、そのぶん賃金は安く、かつ雑多で断片的な仕事をやってもらえる、というメリット。しかし、こういう利害の一致が成り立つのは、若い労働者だけであって、ある程度の年齢を迎えるとそのバランスは崩れる。労働者のメリットが減り、会社のメリットが増える。労働者は背に腹はかえられないが、会社は代わりのパーツをいくらでも交換できる。さらにいまは不況。。それに家庭を持つにはそれなりの収入や社会的地位(ほとんど同じか。収入と社会的地位は)がないとダメだし、どんどん歳をとっていく親も気になる。いろいろ気になる。歳をとってくると、やはりそれなりに収入がないと、他の人たちと同じルール(=社会?)に従うことが難しくなる(不可能ではない)。でも、責任が少なく体・頭ともにエネルギー消費の少ない仕事は賃金が安い。とはいえ賃金が高い仕事は、責任もあれば体・頭ともにエネルギー消費は多いし、なにより専門的な技術や知識を必要とする場合も多い。すると、仕事以外にまわすエネルギーが少なくなる。そういうふうに、ふたつのうちどちらをとるかの選択を迫られる。すくなくとも、どちらを重視するかの選択を迫られる。自分の時間か、社会的地位と安定した収入か。もちろん、どちらか一方だけしかとれない、という二択ではなく、バランスの問題なのだけれど、そのバランスの軸をどこに置くかという選択。自分の時間を軸に、それを圧迫しない程度に社会的地位と収入を求める。もしくは、社会的地位と安定した収入を軸に、それを圧迫しない程度に自分の時間を求める。そのバランスがたいせつ。とかいうような考え自体がおかしいのではないか。芸術家においては、本業(芸術)と生業(仕事)が無関係であるからこそ、仕事は仕事であり、芸術は芸術である。逆に仕事人(さしあたっては正社員にしておく)においては、本業(仕事)と趣味が無関係であるからこそ、仕事は仕事であり、趣味は趣味である。こういう、ある対立するふたつの要素の断絶を前提として、なおかつ、断絶がある限りにおいて、ふたつの要素は成り立つ、というような、考え方そのものがおかしいのではないか。ほんとうに「軸」=「本業」は必要なのか。「軸」以外は軸にぶらさがる「それ以外」でしかないのか。「それ以外」は「それ=軸=本業」を経済的側面から可能にするもの(生業)でしかないのか。「それ以外」は「それ=軸=本業」の息抜き(趣味・自分の時間)でしかないのか。「それ=軸=本業=同一性」というのはいったいなんなのか。そして「それ」を支える「それ以外」という考え方はいったいなんなのか。
ああ、疲れた。そして面倒臭くもなってきた、書くのが。頑張れ。ことばで自分の考えを整理していく、というよりも、ことばで言う/書くことによって自分の考えを知る、ことがどれだけ活きるか、どれだけ自分にフィードバックがあるかは、ほんと、忍耐次第だ。ただたんに。粘るかどうか。粘るプロがいるとするなら、それは文章を書くプロだ、たぶん。小説家とか。そもそも何の得もないのに、誰の役に立つのかすら分からないことを長々と書くってなんなのか。修行か。苦行か。というよりもはや狂気なのかもしれない。おー、いまワードで確認してみたら1万字超えている。ある部分はアップしないし、たぶん削るところはもっと増えるけれど、それ以上にくだらない部分を増やすかもしれないし、くだらないといえばぜんぶくだらないが、どうなるかは分からない。でも9000字くらいにおさまりそうな気もする。おさまるといっても、オチがつくわけではなく、たんに、そこが心が折れたところ、というだけ。ひとまず書いていることの外に出てみてリフレッシュしようという魂胆だけれども、そのリフレッシュをこの書いていることの内でする、ってのはどうなのか、ありなのか。いや、別にアリかナシかは特に気にしていないくせに書く。気にしていないってことはアリだと思っているのか。どうなのか。えーと、現状で使う、つまり、はてなにアップすることを決めているところだけだと、8877字。ミスチルの新譜がどうこうっていうのは今度にするか否か。
新星堂dropsというフリーペーパー12月号のミスターチルドレンインタビューより。

桜井:僕自身、リスナーとして内面の吐露とかうんざりしているようなところがあって。僕ももうおじさんですから(笑)。ラジオとか若いバンドとかが迷いや葛藤を歌にしているのを聴くと「う〜ん」ってなっちゃうような感じが実際あるんですよね。世界の経済や環境がいつどうなるかわからないっていう先行き不安なときに、たかだか20年ぐらいしか生きていない人の内面吐露とか葛藤に対して少なくとも自分はお金を払ってまで聴きたくないなって思う(笑)。


かんたんに言うと、芸術家であろうとなかろうと、食うために仕方なく仕事をする、そして仕事以外は趣味でリフレッシュ!ストレス解消!というような、公と私を厳密に区別して、公のために私を殺す、私のために公を殺す、というような働き方・生き方がぜんぜん面白くもなんともなく、息苦しいだけだ、ということで、あとは、仕事の「やりがい」とか、もっと広くいって生活の「生きがい」みたいなのが、なんでこんなに単一化されているというか、単純な意味しか持ってないのか、ということで、こういうのは「ワーク・ライフ・バランス」とか「クオリティ・オブ・ライフ」とか「ダイバーシティ(Diversity & Inclusion)」とかいう謎の用語でもって考えられているらしい、と小耳にはさむ。といっても、耳で聞いたわけではなく、ネットで見た。目で見た。いや、ダイバーシティはいま書いている問題に関係なくもないけどそんな関係あるわけでもなさそうだ。よく分からんけど。だいたいあたまごなしの「ノー残業デー」でなにが変わるのか。それは「ゆとり教育」となにが違うのか。それよりも、個人のケースごとに異なる、個々の実践からだんだんと変化が起きてくるようなものの気がする。そして個人の実践を促し醸成していくようなやりかたが必要なのではないか。とにかく、公私混同しやすい働き方と、その働き方の基礎になる考え方について考えないといけないような。すくなくとも、われわれ「芸術家」は我儘だ。そしてまったく柔軟性がない。しかし、経済的な社会でルールに沿って生きるのは、けっこうむずかしい。うーむ、なんじゃかんじゃと書いてはみたけど、けっきょくなにもすすんでいない!どうしたらいいだろうか。。さて、最後にもうひとつ別の話題を。
いまの社会で、自分の作品を売って生計をたてている「わけではない」芸術家は、自分の創作以外に「仕事」を持たなければなりません。そして、いままで我慢して読んでもらった方にはなんとなく掴んでもらっていると思いますが、芸術家は生計を立てるために、しばしば自分の創作とはあまり関係のない仕事を「積極的に」選んだりもします。なぜなら自分の創作へのエネルギーを確保するためです(もちろん、そうでない幸福な芸術家もいますよ)。ここには、「働き方」としての問題とは別に「芸術」としての問題もひそんでいます。芸術家が自分の創作とは別に、創作とは無関係な仕事を「仕事」と割り切ってすること(もちろん職場には芸術家であることは伏せています)、これはすなわち芸術家が自分の内に、芸術と非芸術を抱え込むことにほかなりません。ときには芸術家であり、ときには芸術家でない、という状態です。そのふたつの乖離に耐えられない、というのは「働き方」の問題でもありますが、「芸術」の問題でもあります。えーと、なにを言いたいのでしょうか、私は。ああ、そうだそうだ。いまの社会では、多くの芸術家が、生活していくための労働を介して自分の内に「芸術/非芸術」を抱え込まざるをえない、ってことです。さて、これがどう「芸術」の問題として理解されるか。どうしましょうか。ひとまず芸術の内側/外側の問題と繋がると思います。
私は築港ARCのアート情報ポッドキャスト「ARCAudio!!」の9月から11月のボイスコラムコーナーを担当しました。タイトルは「アートに興味がない人とアートについてはなしてみよう」です。タイトルが内容を表していますが、いちおう説明すると、私、小田寛一郎が、私の周りの「アートに興味のない人」とアートについてはなしていみる、というものです。これを企画するにあたり、念頭にあったのは、アートの外側、つまり、「アートに興味のない人」の視点から、アートを見てみるとどう見えるのだろうか、ということです。「はなす」ことで視点を借りるわけです。私の姉(会社員)、実家の友人(公務員)、姉の友人(会社員)、友人の弟さん(システムエンジニア)の4人におはなしを聞きました。やはりというかなんというか、アートは「アートに興味のない人」からみると、「わけのわからないもの」「自己満足」「言ったもん勝ち」「オリンピックの方が感動する」などなど、ひどいいわれよう。とはいえ、みなさん「わからない」からこそ、芸術にはまだまだ甘い。放任です。しかしそれでは芸術や芸術家のためにならないし、アートに興味のない人のためにもならない。芸術や芸術家のためにならないのはいいとして、アートに興味のない人にとってもためにならないというのはどういうことでしょうか。おお、またはなしがズレていますね。このはなしを引っ張ってもいいですが、もうそろそろお疲れだと思いますので、このはなしの続きはまたの機会ということで、先に行きます。と書いていますが、たんにはなしをうまく繋げる自信がまだないのです。では先へ。さきほども書いたように、この企画を始めるにあたり私の念頭にあったのは、アートの内側/外側、という区別です。そして、その区別は外側があることによって、支えられていると思っていました。しかし、さきほど読んでいただいた、仕事と生活、芸術と仕事、本業とそれ以外、仕事と趣味、公と私、について考えていく過程で、どうもそうともいえないと思えてきました。Re-TATTAKAさんは、「一般的な社会生活を否定せざるを得ない(自称)芸術家」という表現をなさっていますが、芸術家(自称、他称問わず)は、いまの社会ではたいていの場合、生活していくための労働を介して自分の内に「芸術/非芸術」を抱え込まざるをえないです。そしてその「芸術/非芸術」は「芸術/一般的な社会生活」の区別に正確に対応します。これがどういうことかといいますと、芸術家じしんが、自分も含まれている「一般的な社会生活」を非芸術、芸術にとっては不純なもの、として抱え込んでいる、そしてそれだけならまだしも、そのような自分のなかの「一般的な社会生活」に自ら敵対してしまっている、ということです(この乖離そのものは芸術家に限ったことではありません)。いささか古典的な感じもしますが、これはやはりあります。芸術家という人間には人一倍純粋なところがあり、芸術に限らずなんでもかんでも純粋化を求めるところがあります。えーと、またなんだか分からなくなってきましたね。つまりです。芸術の内側/外側っていうのは、当の芸術家じしんが芸術の純粋性を求めるあまりつくりだしてしまったものなのではないか、ということです。そして、さらにこの区別があるために、芸術の内側と外側、ひいては「芸術」と「社会」の溝が埋まらないのではないか、ということです。芸術は社会を映すものである、という考えがあります。これはこれで正しいと思いますが、もしその芸術行為の主体、つまり芸術家と受容者が共に自分の属する社会から目を背けてしまっていたらどうでしょう。それはなにを映しているのでしょうか。もちろん、そのような事態をこそ映しているといえなくもなく、そういう意味で「社会を映す」ものだと私は思っています。誰かがその意志や意図を持って「映す」のではなく、その誰かをも含めて「映してしまう」・「映ってしまう」という。とはいえ、それでは社会に対してあまりにも受動的・消極的にみえなくもないです。でもたしかに芸術にはそういうところがあります。つくった本人にも「なにも分かっていない」という。だからこそ、作者だけでは芸術行為は成り立たない、といえるのでしょうか。どうなのでしょうか。余談になりますが、芸術と社会という観点からみると、デザインと芸術の違いがはっきりします。深澤直人さんの受け売りなのですが、デザインはある問題・問いに対してその都度の最適解を与えるものです。モノやコトの外側を装飾するものではない。そしてデザインが解くべき問題は常に現実社会のなかに、目に見えるかたちで、つまり具体的に、存在します。一方、芸術はどうかというと、ちょっとややこしいです。芸術はデザインよりもさらに抽象的といいますか、より一般的に、「つくる」こと、実践すること、を通じたなんらかのあらゆる対象へのアプローチそのもの、なのだと思います。だから、デザイン的なものもあれば、純粋に「芸術」内でしか成立しないようなものもありますし、ほとんど哲学・思想そのもののようなものもあります。ちなみに、「つくる」ことそのもの、実践することそのもの、の基礎として芸術があり、「考える」ことそのものの基礎として哲学がある、とすれば、すべての人が芸術家(デザイナーというよりプロジェティスタ)であり、哲学者である、ってことになりませんか?なりませんか。どうですか。さらにちなみに、いま書いているこの文章は、「公私混同しやすい働き方と、その働き方の基礎になる考え方について」になにかしら関係しないかなあ、というつもりです。繋がるかどうかはさておき。専属から複属へ、専業から複業(副業ではなく)へ、あるいは分業のバージョンアップ、と言ったところで、それはそれで難しいというか、そういうのをぼーんとあらゆるぜんぶに当てはめられるわけでもなし、ということですが。
たとえば、行き先も決めずに歩く、というときに重要なのは行き先よりも歩いているあいだのことなのだけれど、どっちかといえば、別に行き先は決まっていてもよくて、行きっぱなしというか帰る必要がない、つまり往復する必要がない、ということの方が重要で、だからこそ歩いているあいだの方が重要だということが言える、少なくともそのときは一回きりだから。一昨日の歩きで見かけたのは、プラネットステーションとか難波宮とか大阪府警察本部とか大阪府庁とか大阪府知事公邸とか。プラネットステーションはひとまず建物が変。入り口のうえのとこに、まるっこい白子みたいなのに天使が絡まっている物体。色はブロンズ色。外の掲示板で催しものスケジュールを見てみたところ、いろいろやっている。なんだっけな、カラーセラピーやったかそういうのとか、なんとか大学アメリカ民謡研究会定期演奏会とか。それこそいろいろ。いろいろなのはいいことだ。難波宮は広い。そしてむかしの建物の痕跡がある。大阪府警察本部はいかつい。なぜだか建物の1、2階くらいまでの高さまでがお城の石垣みたいな見た目。城。土曜日いや日曜日の18時くらいに北新地を通り過ぎてその前にディアモールを通り過ぎて、ディアモールに入る通路の真ん中に立っている円柱の様子がおかしい。4本くらいある円柱のすべてに赤というかえんじ色の布がドレープをつくりながら床から30センチくらいのところまで垂れ下がっていて、これはなにか。円柱の正面(円柱に正面というものはないけれど、ディアモールに入る通路の向きとの関係からみた正面)と背面の下の方に「AU×ディアモール ウィンターコレクション 12/13・14」とかそういう情報が書いてあって、そこの部分に布がかからないように裾上げされている。で、これなに?と思って布をめくって見てみたら、円柱の布で隠れていた部分には携帯の写真があって、これは携帯の広告なのか。とはいえ、隠してあるわけで、これはいったいなにか。こうやって隠してあるものを見る、ということを誘う、つまり、布をめくって見てみるという能動的な動きを誘う広告なのか、とか思ったけれども、そういうわけではなくて、12/13までこうやって隠してあるだけで、つまり12/13・14のための予告というだけで、めくって見るものではなく、確かにディアモールを行き交うみなさんは誰一人めくってみることもなく歩いていく。そういえば、最近テレビCMにも予告だけのやつとかあるし。
Re-TATTAKAさん、村上隆さんの芸術行為は、プラグマティック(実利的)というより、エコノミック(経済的)といった方が近いのでしょうか。といっても、いまの社会でいう実利は経済のことなので、同じことですね。『「ミニマルアーティストとしてのサラリーマン」の形式的な実践』!面白いですね。サラリーマンとしてのアーティストですね、たしかに。作品という商品を工房という工場で製造する。しかしそれ以外は伝統的である、という。なんだか今回はぜんぶの文章はRe-TATTAKAさんへのレスポンスでもあり、このまえ大阪のジュンク堂のアートの棚で発見した、慶應義塾大学アートセンター発行のブックレット「Booklet 04 脱芸術/脱資本主義 半プロダクション礼賛」(http://www.art-c.keio.ac.jp/publication/books/booklet04.html)の熊倉敬聡さんによる「序」へのレスポンスでもあります。その「序」より

<脱芸術/脱資本主義>とは、「資本主義」という現実、「芸術」という現実を認めつつも、しかしそれらに全面的に侵されるのではなく、それらの傍らで、それらに寄り添いつつ、ある異なった生活のスタイルを享受しようとする。
<中略>
しかし、<脱芸術/脱資本主義>は、「資本主義」的労働や「芸術」的労働ができない「脱落者」や「弱者」に温かい手を差し伸べましょうという、「ヒューマニズム」という名の情緒的植民地主義を意味するわけではない。それは、人間の活動の中に、貨幣という価値でもなく、美という価値でもない、ある別の価値を見出そうとする。できる限りお金を稼ごうとか、できる限り美しくしようという視点、すなわち「資本主義」、「芸術」という視点から見れば、「半端」、「下手」、「未熟」等々と見えるかもしれない活動でも、その活動主体たちにとってかけがえのない生の悦びをもたらすものならば、そのような価値(それは<幸福>という価値だろうか?)を尊重していこうとするものである。


えー、ここまで読んでいただいてありがとうございます。けっきょく14,393字も費やして、なんの答えもなにかしらの道筋も方向も見出せないままですが、なんというか、ネットに書いておいたら、誰かが続きを考えてくれるんじゃないか、それとも、同傾向の問題の研究を教えてくれるんじゃないか、でなくとも、まあなにかしらなにかにはなるんじゃないのか、という目論見です。なにかしらなにかとはなにか。なにかしらなにかとか言うのはあまりよくない傾向ですが。今日、口笛文庫に行ってみたら、広くなっていました。二倍以上。喜ばしいことです。アエラムック「新版 社会学がわかる」を100円で、安冨歩 本條晴一郎「ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛」を400円で、合計500円です。1000円お預かりします。500円のお返しです、みたいにスーパーのレジみたいな言い方はしない、古本屋というものは。そしていま「はじめに」だけ読んでみた。安冨歩 本條晴一郎「ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛」の。安冨歩「生きるための経済学―〈選択の自由〉からの脱却」もそうだったけど、なんだか分からんけど、変にキャッチーというか、、あなた悩んでるね、社会のこういうところが気に入らないんでしょ、オレもそうなんだよ、でもオレは克服したけどね、いい方法を教えてあげようか?って言いながら親しげに近寄ってくる感じがじゃっかん気持ち悪い。なんか分からんけど、論じている内容から自分がもう出ちゃっている感じがある。