あ、それと、最後らへんまで読んで放置していた、レーモン・ルーセルロクス・ソルス」を一昨日だかもう一日前だかに読み終わる。最後、ものすごくさっぱりと終わるのが「らしい」気がして、明らかに小説としてのラストより個々のエピソードの方が大事っぽい、この作者は。言葉遊びから出てきたある状況・状態・情景に、ものすごく細かい肉付け(辻褄合わせ)をしていくことが楽しかったのだろうし、読む側にとってもそれが楽しいのであって、小説が終わることは別にどうでもよい。そもそもたぶん「終わる」とかではない。東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」第三章「郵便、リズム、亡霊化」によると、

つまり脱構築は、逆説と詩を通して外部へ至る。

とのことだけれど、私が逆説と詩に対して距離をおいているのは、むしろ逆説に対しては積極的に解体しようとしているフシもあるけれど、それらがなんらかの道具というか手段としてではなく、目的になってしまいがちなのが気持ち悪いからで、つまり、手段としてではなくそれ自体を求めてしまうようになりがちなのが気持ち悪いからで、詩についてはそんなに考えているわけではないけれど「詩」的であることが目的になるとそれはもう詩ではないような。文学でも同じ。そういうことをいま、フェティッシュになってしまう、とか書こうとしたけれど、そう書くと自分でもなんかよく分からなくなるのでやめた。昨日、じゃなくて、一昨日、いや、ややこしいな、水曜日の昼間というか夕方くらいから、いままでの「アートに興味のない人とアートについてはなしてみよう」を聞きかえしつつ、いろんな気になる箇所を抜き出して独立のサウンドファイルにする作業をして、うどんをつくって妹と食べ、なんだか眠いので、youtubeにて畠山美由紀「若葉の頃や」を聴きながら居眠りし、いま現在はその次の(次の次の)日になっていて、一昨日、じゃない、水曜日というか日付は木曜日だけれど、の居眠りしたあとに録音した「アートに興味のない人とアートについてはなしてみよう」の最終回を聞きつつ、さらにyoutubeにて畠山美由紀「若葉の頃や」をもかさねて聴きながらこれを書いているわけだけれど、しゃべりと音楽が重なっていると妙にラジオっぽくておかしい。日付が変わったくらいから、最終回を録音するべくパソコンの前に座り、姉とおしむさんとけいすけとこうたさん、それぞれのみなさんとはなした内容から気になる箇所として抜き出してきたサウンドファイルを聞きつつ適当にしゃべろうと思って、とにかく録音開始してしゃべりだしてみたものの、特になにも思いつかず無言になりそれはそれでいいかとも思ったけれども、いやそれはだめだろうということで、いったんストップ。なので、一回その抜き出してきた箇所から思ったことをメモ的にウィンドウズのメモ帳みたいなのにメモしてから、再チャレンジ。なんだかんだで50分弱に。この企画そのものもそうだし、最終回も同じくそうなのだけれど、企画者(といっても企画自体はアサダ君によるところが大きい)・質問者=私の立ち位置が難しい、というか、立ち位置が定まりそうになるのに注意するのが難しくて、つまり、企画の内容としては、アートに興味のない、もしくはあまり縁のない人に、アートについて訊いてみる、ということなのだけれど、それで何を目指すか、というときに、ソクラテスふうに、相手にいろいろ尋ねていくことで、アートに興味のない、もしくはあまり縁のない人のアートに対する無知を暴く、なんてものではもちろんないわけで、どちらかといえば、アートの外側からは内側はどう見えているのか、ということを通した自己批判なのかなあと思うけれども、とはいえここで前提になるのは、アートに内側と外側がある、ということで、これはこれでおかしい。はなす側(今回はなしたみなさん)もきく側(私)も、それを無条件に前提として承認してしまっていること自体がまずもっておかしいのかもしれない。これはいま思ったことなので、最終回では語っていなくて、まあそういうことをいま補足として書いておこうと思っているから、思ったのだろうけれど、あとはまあなんだろう、ちなみにいま聞きかえしてみて、ことばのあいだあいだに「なんだろうな」をやたら言っていて、これこそなんだろうな。あまりに言うから気になるな。あとは、えー、なんだろう、さっきも書いたけど、私の立ち位置の問題で、この企画全体の前提になっているアートの内側/外側、っちゅうのはいったいなんだ、というのはさっき書いたけど、私ははたして内側なのか外側なのか、ということで、具体的にいうと、内側の立場をとるならば、外側の無理解に対してなんらかのはたらきかけをしないといけなくなるし、逆に外側の立場をとるならば、内側の自閉に対してなんらかのはたらきかけをしないといけなくなるのだけれど、主に、はなしをする段階でははなしを聞く相手と同じ立場をとったように思う。対して、最終回ではそれらの「はなしたこと」についてさらに(ひとりで)言及していくわけで、これをやるときにはどうしてもはなした相手とは逆の立場をとらざるを得ない、というか、そうしないとバランスがとれない。そもそも内側/外側という二分法自体を問題にしている、とまではいかなくても、内側から外側を非難したり、外側から内側を非難するのが目的ではないことは確かで、だからこそ自分の立ち位置の設定がむずかしくて、そこをなるべくあやふやにしておきたい、というのはあったけれど、どうだろう。そういう方向での収穫はあまりなかったかもしれない。あと、これは最終回で話そうかといっしゅん思ってすぐ忘れてしまったのだけれど、前の会社の上司が、フィクション(小説)をまったく読まない!と断言していたことで、そうでない本、たとえばなんかのハウトゥー本とか教科書みたいなのとか、そういう具体的な有用性がある本しか読まない!ってことで、いまいわれるような「芸術」って完全にこの図式で捉えられていると思う。そういうのに対して最終回で私は、人間の思考や感覚の基礎としての芸術・美への感受性みたいなことを言ってはみたものの、これはたぶんかなり古典的なもので、現代で使えるかどうかはかなり怪しい、と思いながらも言ってみたけれど、そういう意味で「哲学」やら「人文知」の境遇もまったく同じ。でも、こういう(古典的な?)言い方って一歩間違えれば、現世での幸福を諦め来世に賭ける!とか、そうでなくても、現実での幸福を諦め仮想の幸福に賭ける!とか、現実世界から離れ思念・思考の世界に入る!(こういうのが悟り??)なんてことになんだか分からないが近くなってくるわけで、これはこれでどうなのかという。芸術というものがその隠れ蓑というとことばは悪いけれど、そういう一種の逃げ場として機能することを否定はしないけれども、そこを起点にいろいろ考えたり変化したりどこかに出ていったりしないと、せっかくの逃げ場も活きないような気がしなくもない。けど、放っておいてくれよ!という気持ちも分からなくもない。まあでも芸術なるものがこれからもあるとして、それが特殊なもの、特殊な行為、特殊な制度、であるよりも、より一般的なものになった方がこれからは使い道があるのではないかと思うわけで、たとえば「料理」みたいに。「料理」はかなりの人が自分でもする一方で、自分の料理を他人に食べさせるプロがいたり、プロを養成したり素人のレベルを上げるための学校があったりする。Re-TATTAKAさん、おそくなりました。歴史の軽視、たしかにそうかもしれません。通時的な歴史に対してもそうでしょうし、共時的な歴史(Re-TATTAKAさんのいわれる「目の前でいま起こりつつある歴史」)に対してもそうかもしれません。「繋がり」=「しがらみ」みたいな感覚がどこかであるのかもしれませんし、「人それぞれ」が他人への否定的理解になることが多いのも関係あるような気がします。俺は俺、お前はお前、お互い勝手にやればいいし干渉は無用!みたいな。不要な干渉は無用ですが、交流とか切磋琢磨みたいなのも含めて排除される傾向があるのも少し感じます。というより、交流とか切磋琢磨みたいなのに慣れていないというか、そういうののうまいやり方を私たちが知らない、というのがまずあります、たぶん。「各々が各々の場所で語りうる事象のみを相手にするしかない」というのは、おそらく、かなり広い範囲で共有されている意識だと思いますし、保坂和志さんが「小説、世界の奏でる音楽」、「7 主体の軸となる現実は……」で柴崎友香さんの「主題歌」を取りあげつつ肯定的に言及している「貧しさ」という生き方とどこかで通じると思うのですが、この「貧しさ」という生き方について、まえにも書いたことがあって(http://d.hatena.ne.jp/k11/20081017)、私はどこかで肯定的になりきれないところがあります。いわゆる現在の「資本主義」社会での成功レースに乗らずに、そのなかで成功しないなりにもなんとか日々自分の生活・表現を積み重ねていく、というのはそういう言い方を字義通りとれば、地に足のついた生き方だと思うのですが、その言い方に含まれる可能性として、現在の「資本主義」社会そのものに適応できず、よってそこでの成功も自己実現もなく、「別世界」としての芸術なり表現での成功というより自己実現に活路を見出す、というのがあると思っていまして、これはこれでどうなんだろうか、、と。「好きでやっていること」は誰かに迷惑をかけない限り誰からも文句は言われませんから、その内容はともかく「好きでやっていること」さえあればいい、という転倒が私(たち)のなかに「ない」とも言い切れないと思うのです。なので、そういう意味で山本握微さんのいう「普通芸術家」(サラリーマンでも芸術はできる!芸術に逃げるな!ということだと私は理解しています)という考えがとても面白いと思っています。私自身はサラリーマンでもなく、ただの無職なのでなんとも言えませんが。。たしかに会社勤めはほんとに仕事とは無関係な鬱陶しいことばかりなので、しんどいといえばしんどいですけれど。もちろん、そういう人たち(「貧しさ」という生き方を実践する人(アーティスト?)たち)をこそ応援しなければならない、という保坂さんの主張には全面的に賛成ですし、自分なりに応援をやっていきたいです。ちょっとまえにふと、「なぜCDは(ほぼ)一律で同じ値段なんだろうか。内容が違うのに。これはこれで変じゃないか?」と思ったのですが、そのあたりがいまの音楽と美術の違いなのですね。Re-TATTAKAさんのはなしを聞いてすこしはっきりしてきました。あと美術なり音楽なりそのような大きい意味での「芸術」でいう「成功」といったときに思い浮かぶのは、まずひとつに「名声」としての成功があって、あとは「経済」としての成功があって、もうひとつ成功といえるのかどうか客観的な判断がつかないものに、「芸術」そのものに奉仕した、というかひとまず自分の主観的な満足は得られた、と言うべきか分からないですが、そういうのがあるかなあと。いまはもう「名声」も数字で計れる(と思われている?)し、それはそのまま「経済」に直結すると思うのですが、そういう「計れる」もの以外はあつかいづらいからやはり敬遠されるのでしょうか、どうなのでしょうか。「計れる」もの以外を相手にする、というのが、「貧しさ」という生き方なのでしょうか。。