さきほど帰りにツタヤで借りてきた「人狼 JIN-ROH」を観たら、最後どっちも死ぬかと思いきや片方だけ死んで、機関銃みたいなのの発射音が野太いというかババババでもドドドドでもなくボボボボ。アップルシードの最初の戦闘での機関銃の音と似ている。なので、仕方なくyoutubeミスチルのPVとかライブ映像を見る。Mr.Childrenの「LOVE」と「LOVEはじめました」を2曲続けてどうぞ。

このまえ、先週か、の月曜に妹と姉ちゃんがあるドラマをみていて、イノセントラブというやつらしいけれど、これが突っ込みどころ満載というか、なんか変で面白いらしい。お兄ちゃんが怖いらしい。「妹に近づいたら殺す」という名セリフがあるらしく、毎回誰かに向かって言っているらしく、姉ちゃんはこれがお気に入りで、ドラマを見ながら時々言ったり、友達に言ってみようかな、メールで送ろうかな、とか言うほどお気に召したようで、妹は妹がいる人は羨ましいとか言っている。妹がいる人は「妹に近づいたら殺す」って言えるからで、妹は末っ子なので妹はいないため「妹に近づいたら殺す」って言える立場にない。ちなみに私は言える立場にある。それでそのドラマに出ているゆずの人を見ていて、思い出すのはミスチルのボーカルの人で、ゆずの北川悠仁さんとミスチル桜井和寿さんはそっくりだ、というか、笑顔がそっくりだ、とにかく。と思ったらYAHOO!知恵袋にも北川=桜井説が投稿されていて(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1217742027)、ベストアンサーに選ばれた回答はnyancoromochi2000さんの「歌ってる時は似てる!でも、悠仁の方がカッコイイ♪」。というわけで、比較のために、ゆず feat 桜井和寿 and Bank Band「夏色」をどうぞ。

wikipediaによると、安田美沙子さんの好きな男性のタイプは北川悠仁さんとのことで、Re-TATTAKAさん、「批評の不在」についてのお返事ありがとうございます。作品の「商品」化(価格=需要・注目=価値?)、すなわち経済の論理が支配的になってきたことで(というより、むしろ人文知の衰えと共に批評も衰え、いっけん白黒はっきりしているようにみえる、経済の論理が出てきた?)、作品と批評の循環による美術の盛り上がりがなくなったこと、を批評の不在、もしくはそれに伴う状況、と理解してもよいのでしょうか。とはいっても、正直なところ、私は、批評や人文知が力を持っていた頃を知らない、というか、物心ついたときからいまみたいな感じなので、「批評の不在」を実感として、感じにくいのは確かです。表現の現場にあんまり足を踏み入れていないから、というのもあるかもしれません。。なんというか、党派的な議論でもなく、単なるいちゃもんでもなく、個人的嗜好・好き嫌いの主張でもなく、というか、そういうふうに機能しないような、すくなくとも言説のそのような機能を最小限に抑える、「言い方・考え方」のモデルみたいなのがあれば嬉しいよなあ、とか思ったりもします。「人それぞれ」を盾に、発話者本人の立場もまた安全圏に置いて、いろいろ言われても、どうしようもないよな、、というのはときたま感じます。あ、私にとって、「批評の不在」というのは、いまだピンとこないものですが、これを「対話の不在」というふうにもし言い換えられるとすれば、ピンとくるかもしれません。あんまり対話はない気がします。私たちはとにかく変化、というか、誤解、というか、自尊心を傷付けられるのを恐れるので。と、書いてはみたものの、「誤解」なるもの自体があるのかどうかが疑わしくて、誤解と感じるからには、正解があるわけで、正解と比べて異なっているから誤解だと判断するわけで、じゃあ正解ってなんなの?といったときに実のところはっきりとは答えられないわけで、これも違う、あれも違う、というふうに「目の前にあるコレは思っているのとは違う!」を積み重ねることでしか、正解を捉えられない、もしくは、正解を追い続ける過程や姿勢こそが正解、というふうに思っているのはなぜだろう。それは、正解も誤解もない、ということとは違うのか。たとえば、私は、私をこう見てほしいとかこう見られたいイメージみたいなのは、そんななくて、というより、なくはないんだろうけど、むしろそれより、そういう自分の自分に対するイメージをどんどん自分で消していく(はぐらかす、といった方が適切?)方が楽しくて、誤解で傷付くのは自分で抱いている(理想の)正解のイメージがあるからだ(ないしは、「ありのままの自分」という、あるひとつの不在を実体化したような、ありそうもないイメージとか)。それならば、いっそのこと、正解/誤解の判断をいったん活動休止にして、私じしんに対するあらゆる判断・イメージを正解にしてしまった方が面白いのではないか。まずは私じしんが私をとことん誤解してみると、面白いのではないか。そのくらい「人間」一般の器って意外に大きいのではないか。あ、Re-TATTAKAさん、また聞き忘れました。『ただ映画だけはもとより芸術でないがゆえに批評の倫理は働いています。』とのことですが、それならば音楽はどうでしょうか。どちらかといえば、音楽は純粋な芸術とはみなされてなくて、美術(芸術)と音楽は区別されますよね。うーん、でも「ない」気がしますね。というより、「商品化」のモデルは音楽から美術に流れ込んだんじゃないのか、とか、いまちょっと思いましたが、どうなんでしょうか。