そんなに、1に批評、2に批評。3、4がなくて5に批評!みたいな感じなんですか、東京は?平間君もそんなようなことを言ってたような。「批評」といったところで、ものを考える様式というか道のひとつなのであって、どんな道だろうがぜんぜん構わないのになあ。「言葉で説明出来ないやつは門前払い」というのはそうかもしれませんが、さらに詳しくみると、「そういうスタイル」で説明できないやつは門前払い(と同時に「そういうスタイル」を知らない読者は門前払い)、みたいな感じなのでしょうか。で、「そういうスタイル」を構成する要素として、シミュラークルとか脱構築とかアウラとかがあって、さらに、ベンヤミンとか純粋知覚とかライプニッツとか形而上学とかメルロ=パンチとかウィトゲンシュタインとか聴取的世界存在とかがあるんでしょうね、と書いてきて、メルロ=パンチってアンパンチより弱そうというか、アンパンチはけっこう強いのかもしれませんが、聴取的世界存在って何ですか?たしかに意味不明。。聴取的、世界内存在(ハイデガー!!)ならまだしも意味は通りますが、なにもそんな言い方する必要はないですよね。多少回りくどくてももうすこし丁寧に言えばよいのになあ。ああ、そうだ、田中功起さんというアーティストをご存知ですか?この人の作品はとても面白いんですが、言うことも面白くて、「『芸術の山』第0合のための往復メール書簡 田中功起⇔奥村雄樹」予告編(http://mountainofart.blog18.fc2.com/blog-entry-47.html)より

たとえば思想や政治・文化状況、建築、そして美術史、もちろんサブカルチュアをここに含めてもいいが、そうしたものに依存し、そういうものなくしては成立しないもの、あるいはそれを知らずには理解ができないもの、そういう作品ばかりがやたらと目につく。<中略>だが文脈そのものを全く持たないものはおそらく原理的に作品として成立しないようにも思う。

ということを言っていて、これはまさしくそうだ!参照項ありきの作品に対する違和感もそうだし、とはいえ文脈そのものを持たないものは原理的に「作品」足りえない、ってところも!と感動した覚えがあります。ほいで、批評っていうのは、同じ「ことば」で物事を捉えること、繋がりとして、哲学・思想と強い影響関係にあるような気がします。どっちかというと哲学・思想から一方的に影響を受けているっぽいですが。いわゆる「批評」が主に哲学・思想に参照項を求めるのはそういうことかと思っています。哲学・思想の分野で提起されたアイデア・概念を、ただたんに批評対象に当てはめるだけでは、なにも生産していないに等しくて(たとえば、「脱構築」が悪名高いのはこのこともあるんだろうなあと思います)、といっても、「能動的な受容者のいち形態」としての批評家、という存在はあった方がいいと思いますし、つまり、ある「作品」、のテーマなり問題提起なりメッセージなりなんでもいいですが、そういうのをひっくるめて「作品」といいますが、あくまで個々の「作品」を豊かにする、ひいては芸術行為ぜんたいを豊かにする、ための批評はあった方がいいような。とはいえ、当の「作品」とは無関係に、一種の知的ゲームとして純粋化されるのには反対です。「豊かにする」ってのもあまりにぼんやりし過ぎで、なんだろ、次の「作品」が生まれやすくする、みたいなことかもしれません。とりあえず私も「批評」がなんなのかよく分からないので、困っています。いや、ウソです。別に困ってはいないです。「批評」であろうと「論考」であろうと「エッセイ」であろうと「対談」であろうと「ブログ」であろうと、文章であることには変わりがないので、面白いものもあれば面白くないものもあります。そして面白いかどうかは、私にはあんまり関係ないかもしれません。さっき面白いものもあれば面白くないものもある、とか書いたくせになんですが、面白いとか面白くないとかを決めるまえに、けっこうなんでも面白いといえば面白いので、面白いかどうか決める必要がそもそもない気がしてきました。河野円さん(http://d.hatena.ne.jp/i_ma_wav/)へ。