エーコの「開かれた」って言い方はひじょうにびみょうものだなー。まず、「開かれた作品」「序文」でいっているのは(以下、引用はすべて「開かれた作品」「序文」より。太字の部分は、原文では傍点)、

<開かれた作品>という概念に、価値論的考察は含まれない。

ということで、開かれた/閉じられた、というような二分法ではない。らしい。そして、仮に誰かある芸術家に自分の作品は開いているのか閉じているのか、聞かれたとしたら、

断固として挑戦的にこう答えざるをえないであろう。<開かれた作品>などというものには今だかつてお目にかかったこともないし、おそらく実際には存在しないであろうと。

そのあとすぐ、

これは、<開かれた作品>という概念が一つの批評範疇ではなく、一つの仮説モデルを表現するものであることを逆説的に示すための一つの例えであった。

と続ける。ほいでその<開かれた作品>という仮説モデルの基礎には<生産―作品―享受>という、より一般的な関係がある。ほいでさっきの引用部分のすぐあとで、

この概念は芸術的諸問題がどのように解決されるかをではなく、どのように提出されるかを明らかにするものなのである。

そして、<開かれた作品>という仮説モデルによって明らかにされる構造、<開かれた作品の構造>について

<開かれた作品の構造>とは、様々な作品の個別的構造ではなく、ある作品群にとどまらず、受け手とのある一定の享受関係の中で設定されたものとしてのある作品群を記述する一般的モデルなのである。

と説明しているけれども、エーコ本人が注意を促している、というか、先回りして誤解のないように言っていることは、このモデルによる構造=関係の分析が、いわゆる『ある種の正統的構造主義』に見られる『表面的な客観主義的厳密さ』からはかけ離れているということ。それがなぜかというと、

構造主義が芸術作品を純粋な意味表現の構造という<結晶>のようなものとして、作品解釈の歴史の手前で分析記述しうると主張するなら、

とのことで、作品内部の静的な意味関係=構造、(だけ?)ではなく、作品と作品をとりまく場との動的な関係=構造を相手にする、ということかしら。いや、すこし違う。作品を通して<生産―作品―享受>というひとつの動的な関係の構造を相手にする、ということか。と思ったら、ちゃんと本人が書いていた。

開かれた作品のモデルは複数の作品の一つの客観的と見なされる構造をではなく、ある享受関係の構造を再現する。形は固有な解釈の秩序を生成する場合にのみ記述することができる。

このあとでもう一回、だめ押しのように

このようにして獲得された開かれた作品というモデルは、まったく理論的なモデルであり、<開かれた>と規定しうる作品が実際に存在するという事実とは無関係なのである。

と書いているが、だめ押しというか、まあだめ押しだけど、とにかく<開かれた>と規定「しうる」作品はあるけれども、そもそも「開かれた」とか「閉じられた」とかを判断するためのものではないよ、っちゅうことか。序文の最後「4」で、この「開かれた作品」という書物で行った研究についての限界について記されているが、いまひとつピンとこないので、とりあえず私自身が思いつくのは、まずなににおいても、この<開かれた作品>という概念・モデルが提起されたのは、その時代の芸術の傾向に対しての反応・分析であるわけで、ある意味ではその時代というか時代性に束縛されているはず。序文に続く第一章「開かれた作品の詩学」は、演奏者に解釈の余地が多く残された音楽作品の例として、シュトックハウゼンの「ピアノ曲11番」、ベリオの「フルート・ソロのためのセクエンツァ」、プスールの「交換(スカンピ)」を挙げることから始まるけれども、いま現在、これ以上に曖昧かつ不確定な作品はたくさんある。あと、私自身<開かれた作品>という概念・モデルを理解していない、というのもあるだろうけれど、そもそもなにをもって、どのような「作品」の「享受関係」の構造に<開かれ>を見るのか、自体がものすごく曖昧で、モデルがどうとかいう前にそこがすでに(原理的に??)グラグラはしている。これはもうむしろ、蓋然性=確率、ないしは、可能性という概念にどう接するか、という問題なのではないか。蓋然性に「無限なるもの」を感じ、そこに価値を見出すなら、蓋然性は価値でありそれゆえ<開かれ>と感じられるだろうけれど、もしそうでなければ、蓋然性は、過程(プロセス)と結果の「完全な」断絶、<閉ざされ>しか意味しない。つまり、未だ「作品」の「結果」、もしくは「過程という結果」しか知らされない受容者にとって(もしかしたら原理的にそうなのかもしれないが)、現代の「曖昧な」「不確定な」「偶然的な」作品に触れる際の、(自分にとっての)価値判断に決定的な影響を及ぼすのは、当の「作品」が、どのように、どのくらい、開かれているか、ではなく、その基礎にある、蓋然性や不確定性を「どう捉えているか」、つまりそれらの概念に対して受容者がどのような態度をとっているか、なのではないか。だから、あの手この手で受容者の積極的な解釈や参加を促したり、曖昧性や蓋然性や不確定性を徹底させたりしたところで、ぜんぜん響かない人がいる、ということになるのではないか。私自身はどうかといえば、蓋然性とか不確定性とかによって感じる「無限なるもの」、「可能態、というか可能的な様態?」、「未来性」(というより過去―現在―未来とかそういう分節なしの無時間性??)、みたいなものに、無条件に反応するようなことはもうないけれど、自分や誰かがそれに魅力を感じることは理解できる。そういうふうにある程度であっても対象化できてくると、今度はそれが疑わしくなる、という感じかしら。見えないし知りえない「なにか」への飛躍への憧れみたいなのは理解できるし、というか、その飛躍、飛躍への憧れそれ自体は人間という生き物の内部にもともと備わっているというか、そこが人間と動物を分かつところなのでは、とか、木田元編著「ハイデガー存在と時間』の構築」を読んでいると、教えられる。