直島に安藤忠雄さんと李禹煥さんのコラボレーションによる美術館、施設?ができるそうで、どうなることやら。わりあい楽しみだ。見渡す限りずーっと平らで遠くにも近くにもなにも見えない砂漠か、ドラゴンボールに出てくる「精神と時の部屋」みたいなところに自分かもしくは誰でもいいけれどただひとり誰かがいるイメージをしてみて、そして、そこから自由に動いていいよ、と誰かから(作品の作者もしくは神さま?)言われたとして、方角も方向もなにも分からないままとりあえず適当に前か右か左か後ろか右斜め前左斜め前か右斜め後ろか左斜め後ろに動いてみたとして、この場合、本当に「動いた」という実感が得られるのだろうか。高橋源一郎最初にして最後の恋愛小説!!というような、あくまで「ような」オビがついているさも恋愛小説のような装丁の小説の表紙に高橋源一郎さんの名前がなかったら絶対手にとらない。それっぽい写真をメインにしたそれっぽい装丁。パロディか?ばばーっと中身を見ていくがばばーっとじゃよく分からない。けど、最後らへんをばばーっと見てみた感じでいえば、どんどん外に出ていく入れ子構造というかお決まりのアレというか、というふうにみえるので、どうだろう。どうだろうか。面白いのだろうか。いま調べてみたところ、その書名は「いつかソウル・トレインに乗る日まで」。といっても、高橋源一郎さんの小説は「さようなら、ギャングたち」から「優雅で感傷的な日本野球」までの4作とちょっと時代は飛んで「君が代は千代に八千代に」しか知らない。というか、「君が代は千代に八千代に」ってどんなんやったか。ちょっとみてみよう。そんな印象には残っていないけど。いま本棚から出して手にとって背表紙の要約みたいなのを読んでみてもピンとこず、うーん、どんなんやったっけ。と思ったら、そもそも読んでいないっぽい。もう読むこともないっぽいけど。決定不可能性は出てこないが、不確定性と曖昧性と不定形性と無秩序と偶然性と蓋然性と多値性がエーコの「開かれた作品」「序文」ですでに出てくる。蓋然性ってなんだろうと思ったが、「起こり得ない事は無いが、それが必ずしも起こるとは限らない。」と私は2001年2月26日の日記に書いていて、だいたいそういう感じのことかと思う。ググってみたけどそんなはっきりした定義やらはすぐには出てこない。「確率」と同じような意味らしく、ということは、不確定性と曖昧性と不定形性と無秩序と偶然性と多値性と同列に並べられるだけのことはある。偶然性(と必然性)を因果論的決定論の亜流(因果論的神秘主義?)でしかない、と一蹴してしまおうとするのは、無理からぬことだろうけれど、そのほかはどうか。不確定性と曖昧性、不定形性と無秩序、偶然性と蓋然性、はそれぞれ他のものとくらべてより近い。多値性は?不確定でもなく曖昧でもなく無秩序でもなく偶然でもなく蓋然でもなく、ただ単に値が多いだけ?ってだけでもなくて、値が多ければ(値の数が無限に近づけば近づくほど)そのぶん決定がしにくくなる=エンデ「自由の牢獄」=消極的に非決定という決定が行われる。とはいえこれはもちろんフラットに多値な場合。それ以外はどうなのか。あと、ウンベルト・エーコは「開かれた作品」の「序文」で、

そして以下の論考では(現代の詩学における)その曖昧性こそが明らかに作品の明示的目標の一つ、言い換えれば他の諸価値にもまして達成すべき価値となっていることを述べる。<中略>この曖昧性という価値を実現すべく、現代の芸術家は往々にして結果のもつ無定形性、無秩序、偶然性、不確定性という理想に依拠するがゆえに、<形>と、<開かれ>の間に横たわる弁証法的関係を問題にしようと努めてきた。つまり、一つの作品が最大限の曖昧性を実現し、<作品>と呼ばれるものの範疇から逸脱しない程度に消費者側からの積極的介入に左右されうるのはいかなる範囲でなのか、それを明確化しようとしてきたのである。

というふうに、1967年に書いている。これ以降この傾向がどういうふうに伝播し受け取られ変化していっているのかまず知りたい。「価値」や「意味」(という思考?)を脱出するこころみに変わっているのか、それとも、もうそういう傾向は一過性のものとして消え去っているのか。そしてそもそもどのような必要において(時代背景みたいな方面からはひとまずエーコが書いている、たぶん)、芸術家たちは「開かれ」を志向するのか、したのか、気になる。