えーと、たぶんちょっとづつ進んで、いや、変化しつつある。さっきSachiko M「1:2」を聴いたので、その流れでFilament「Filament BOX」の1枚目をヘッドフォンで。これはこの前CDを売ったときに、売ろうかどうか迷って結局売らなかったやつで、置いとこうとなったやつで、なのでせっかく置いておこうとなったのだから聴かないと。昨日『私を含むいまのひとたちにおそらく共通するのは、演奏者(作者)の意図とか意志とか主体性への強い疑いで』と書いたけれど、もちろんこういう疑いがいきなり突然変異のように生じたわけではなくて、即興演奏・インプロヴィゼーションに触れてきた人たちにとっては、Filamentの活動を通した大友良英さんのことばにかなり影響を受けていると思う。けれども、即興演奏・インプロヴィゼーションに関わりのない、私と同世代の人にも、同じような傾向が見られるので、そんなに大きな関係はないかもしれなくて、きっかけというかトリガーくらいのものなのかもしれない。あと、昨日に限らず私は「信念」と「信仰」をひとまとめにして、なんらかの傾向や概念などが自らの信念・信仰であるときに、まさにそれが「信念・信仰」であるという理由において、自らの信念・信仰を疑わない、という言い方をするけれど、これはこれで怪しくて、こう言うときに重要なのは、自らの思考を「疑わない」こと、そしてその理由が根拠なき「同語反復」的であること(「私は自分の信じることを信じる」とか。ならその信じることを信じる根拠はなんなのか。いや、根拠というより、信じたい気持ち、というべきか)なので、必ずしも「信念・信仰」の性質としてそうなのではない。あわせてCanDyさんの「カフェオレみたいな日記 黒いのと白いのと甘いのと」「不信と信心のあいだ」をどうぞ。あと、昨日の「宇宙人」のたとえはなんかおかしい気もする。決定不可能性の例としては、宇宙人よりも、円周率とかカオス的振る舞いとかハイゼンベルク不確定性原理とかの方がいいような、とも思うけど、いやいやちょっと待とう。とりあえず「宇宙人」の例の妥当性は置いておいて、昨日、私は「否定神学」的思考の弊害(?)として、決定不可能性の絶対(超越?)化を挙げたあとに、『演奏者(作者)の意図とか意志とか主体性への強い疑い』を進めていくときの危険性として、同じく決定不可能性の絶対(超越?)化を挙げているわけだけれど、それにも関わらず一方では、演奏者(作者)から意図とか意志とか主体性を引き剥がすこと自体が不可能であるのでは、とも言っていて、そうなると「決定」が不可能だということにはならない。できるかできないか決められないのではなく、「できない」と私は言っている。つまるところ、唐突だけれど、私は決定不可能性と不確定性を混同している。決定不可能性はどちらかもしくはどれかを「決められない」のだが(正解が分からない≠ない?かどうかも決められない)、不確定性はどちらかもしくはどれに決まるか「決められない」。後者はどれに決まるか分からないけどとにかく「決まる」のだ。前者は「決まる」ことがそもそもないことを言い表している。えーと、ひとまずさっきのはなしに戻ると、演奏者(作者)から意図とか意志とか主体性を引き剥がすことを進めていけば、「必ず」不確定性に出くわす。ここでは自分(演奏者・作者としての)が「決めない」・「選ばない」ことが唯一の道筋のように思われるが、昨日書いた意図の問題と同じく、誰かが「決めない」と決めないと「決めない」と決めたこと自体が存在しないわけだし、具体的な作品なりなんなりに落とし込むときにはどう具体的に落とすか「かたち」を決めないといけないわけで、そうしないと作品自体が存在しないことになり、作者としての自分も存在しない。なので、そこを妥協(というのかどうか。これは議論の階層による、たぶん)して、かたちなき「かたち」として「決めない「範囲」」を決めることになる。ここからここまでは決めない、と決める、という。言い換えればフレーム・ルールを「自分で」決める。こうなると、演奏者(作者)から意図とか意志とか主体性を、薄めることはできるが消すことはできない、ということになって、「決めない「範囲」」の決め方によってその濃度が変わるだけ、とも言える。しかし、作者の主体性は薄まっても、作者の自我(エゴ)が薄まるかどうか…。そしてそういう問題じゃないような気も…。また、いわゆる「自然」が「決めていない」ように、「自然に」みえるのは、たんに「人間が」決めていないからで、人間は決めていないが、なんらかの法則はある。なので、人間が決めていないからといって「決めていない」ことにはならない。とはいえ、別にこれらのことはなんら問題じゃなくて、作者の意図とか意志とか主体性を疑うような志向性(嗜好性??)がいったいなにを生み出すのか、が問題なので、そんなにおおごとじゃないし、別にあえて言うようなことじゃないかもしれない。ひとまず、「宇宙人」のたとえはどうなのか、に戻るとして、とりあえず「決定不可能性」の例としてはおかしくはない気はする。どうだろ。そして、円周率とかカオス的振る舞いとかハイゼンベルク不確定性原理は「不確定性」だ。これらは「決定」が不可能なのではなくて、円周率はその終わりがあるのかどうか決められないだけで計算自体はできるし、カオス的振る舞いは「どう」振舞うか分からんと言っているだけで実際は振舞ってしまうわけだし、ハイゼンベルク不確定性原理も「あちらを立てればこちらが立たず」でwikipediaによれば『ある2つの物理量の組み合わせにおいては、測定値にばらつきを持たせずに2つの物理量を測定することはできない、という理論のことである。』とのことで、どちらか片方を測定することを諦めればもう片方は正確に測定できるわけだ。あれ、不確定性原理ってそんなのだったっけ。ある片方のみを測定するともう片方が測定できなくなって存在自体が怪しくなり、そのもう片方のみを測定してみると測定可能で存在が確認できるけれど今度はそのもう片方が測定できなくなって存在が怪しくなる、、、というものだと思っていたけど、同じことか。うーむ。決定不可能性と不確定性の違いはなんだ。「時間性」か。前者には時間性はないが、後者にはある。なんらかの「決定」を下した時点で時間が生まれるわけで、「決定」そのものを下せない決定不可能性に時間性はない。つまり無限ということ。再度、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」、「第二章 二つの手紙、二つの脱構築」の冒頭から引用する、ド・マンによる脱構築の定義。

ド・マンによれば「脱構築」とは、テクストをオブジェクトレベル(コンスタティブ)で読むかメタレヴェル(パフォーマティブ)で読むか決定できない、その決定不可能性を利用してテクストの最終的な意味を宙吊りにする戦略にほかならない。そして「脱構築」はその決定不可能性にこそ、テクストの開放性や他者性を見ると主張している。

たぶん、厳密にいえば、決定不可能性それ自体にテクストの開放性や他者性はないような。決定不可能であることを実践する(時間性を導入する)限りにおいて、つまり、あれでもないこれでもないそれでもない、を無限に、正確にはあたかも無限であるかのように、だけれど、繰り返すことによって、ないしは「ただひとつの」決定をいつまでも先延ばしすることによって、テクストの開放性や他者性は得られるのだろうか。でもそれは厳密には決定不可能性ではなくて、なにしろ、あれでもないこれでもないと繰り返すということは、「とりあえず」にでも「決定」をしなければいけないわけで、純粋には決定不可能性とはいえない。けれども、果たして純粋な決定不可能性という事態が存在しうるのかどうか。仮にそういう事態が人間に起こり得るとして、それは極めて一義的な事態、思考停止とどう違うのか。決められないから「もう考えない!」とどう違うのか。それとも「もうなにも考えない!」を逆に「すべてを考えている!」とでも言い換えるのか。どちらにしろ、決定不可能性に開放性や他者性があるという主張には、「無限」が組み込まれていて、どうにも厄介。不確定性も同じく。不確定であるからといって、そこに開放性や他者性があるわけではない。結局は、どこかに落ちるのだ。どこに落ちるか分からないだけで。しかも、落ちる範囲(「決めない「範囲」)を指定しなければ、不確定性は「かたち」として現れない。「ここ」に落ちたものを「あそこ」に落ちたかもしれない、と想像するのは非常に難しい。だって、現に「ここ」に落ちているから。「ここ」に落ちても「あそこ」に落ちてもよかったものが、「ここ」に落ちてようが「あそこ」に落ちてようが、どうでもいいのだ。昨日の『「かもしれない」が事実となった時点で「かもしれなかったがこうなった」に変化するからだ、たぶん。だから事実を積み重ねても「かもしれない」それ自体に触れられるわけではない、という結論に至る。』と同じで、単純に不確定性の積み重ねや純粋化で不確定性そのものが触れられるようになるわけじゃないと。それにしても、なんかよく分からなくなってきたけれども、続くのかな、このはなしは。今日、ウンベルト・エーコ「開かれた作品」の第一章「開かれた作品の詩学」を読み終わる。そのなかで、「開かれ」、「可動性」、「不確定性」、「曖昧性」が出てきた。昨日のを読み返しつつ矛盾したことを言っているなと思っていたのだけれど、「開かれた作品の詩学」のなかで「不確定性」という単語が出てきた瞬間に、決定不可能性と不確定性はちょっと違うんじゃ、と思った。あと、不確定性の別の側面としてハイゼンベルク不確定性原理も出てきた。いまひとつ分からないのが、「可動性」の位置付けで、「開かれ」に至るものとしてではなく、「開かれ」自体と対置されているようにもみえなくもない。「不確定性」や「曖昧性」は「開かれ」に至る通路として登場している。マラルメのことばも出てくるのだけれど、不確定性というより曖昧性に重心を置いたとき、出てくるのが「詩」で、といってもいわゆる悪い意味での「文学的」な詩というものに曖昧性はないので(見かけは曖昧でも一義的)、そうか、やっぱり「詩」か、と思う。とりあえずそこまでは想定内だ。そこからどうしようか。