「テレビをみる日」のあとは3日間テレビもネットもなく、テレビもネットもなけりゃないで、事足りないことはない。お、まだカレンダーが10月だ。裏返そう。小室哲哉さん逮捕とか知らず。オバマさん勝利は今日知る。というか、今日のことか。し、久しぶりに日記を書くときにいつも思うのだけれど、この日記なんて書かなけりゃ書かないで、なにも問題ないというか、むしろすっきりするくらいかもしれない。長ねぎ入りサッポロみそラーメンを食べながらみたテレビにはホリエモンこと堀江貴文さんが出ていた。途中やたらはなしの流れがホリエモンはメディアに踊らされた、というふうになっていて、いや、そこはもういいから次の話題に。同番組で姜尚中さんがブログはモノローグ・独白だから、と言っていて、それに応えてホリエモンさんがコメントとかトラックバックでフィードバックがありますから、と言っていたが、私もブログはモノローグでしかないと思っていて、ネット上のやりとりは面倒臭くなったり嫌になったりすれば無視できるし、興味のない話題はいちいち拾う必要もない。自分の興味・自分の言いたいことしかないってことは、たんに寄り集まって独り言を言っているだけということでもあって、対面もしくは(擬似的にでも)声の肌理を伴う「話されることば」で起こるようなダイアローグ・対話の生成は、「書かれたことば」であるブログにはなかろうなあ。お互いの「ことば」の境界がなくなって、誰でもないものがはなしだす、みたいな。といってもネット上での「書かれたことば」のやりとりには、「同テーマで並走するモノローグ」みたいなこともあって、これは一種のダイアローグだと思っていて、むしろ直接的な「書かれたことば」でのダイアローグっぽいやりとりより、よっほどダイアローグじゃなかろうか。とは思う。1日が「テレビをみる日」で2日が友達の結婚パーティで3日は難波の無印で食器やら買い込んで、2日の友達の結婚パーティではなにかパフォーマンスを、とのことで、なにをしたらいいのやらさっぱりで、場の条件としては、まず「結婚パーティである」ということがあり、その次に「私を見に来ているわけではない」ということがあり、あとはまあ物理的な場の特性があるが、物理的な方は別にどうとでもなるというかそれこそ「物理的」に対応可能なので今回そんなに気にしない。というわけで、なんだかんだで非常に苦しい条件というか、こういう場で個人の「表現」めいたことをしてもほとんどの場合スベるのは分かりきっているわけで(よくある披露宴での弾き語りなどを思い出されたい)、どうしようかなと毎日すこしずつ悩んだ結果、以前に築港ARCのポッドキャストに提供した「笑い」をテーマにした音声作品(http://d.hatena.ne.jp/k11/20080208)の元ネタ、妹のことば遊びノートを朗読することにする。も、これ以上に適切なアイデアが当日のパフォーマンス開始までに思いつけばそれに差し替えるつもりで。といっても、思いつかなかったというか、これ以上考える余力がなかったというのもあるけど、それで。かんちゃん、なにするのー?とちょっとオネエ系の島田量平に尋ねられ、なにしようか、しまだ決めていいよ、と言うと、言うと思った!と、島田量平。しまだの映像はむかーしに、といっても6年前か、カーマでやったeguisuというバンドのライブ映像を編集したの。いつものしまだの作品はピカピカバチバチしすぎていたため新婦に却下されたとのこと。このときのeguisuはしまだときんじょうとはやしさんといまながと私。私が頬杖をついてカルーアミルクを飲みながらラップトップを触っている様子が映る。この頃、ラップトップといえば「頬杖」なので、パロディというかオマージュのつもりだが誰にも伝わらないのは当たり前のこと。あらかじめ作ってきた電子音のループをいくつか重ねる操作だけなのでけっこうヒマ。中盤ギターを弾いたりする。というようなしまだの映像はそれ自体「作品」としてじっくり見るんじゃなくて、むかしを思い出しながら、思い出さなくてもいいし、BGVとして適当に見流す感じで、はやしさんの映像もそんな感じで、開場とともに流れていた、とのこと。私はすこししか見れなかった。14時半くらいに、振りますからパフォーマンスをお願いします、と進行のコマキさんに言われ、振られ、自己紹介を、とのことで、自己紹介をどうしたらよいか分からず。音楽をベースに様々な活動を〜というふうに振ってくれたので、分からないなりに、最近は音ありきというより、結果的に音が出る感じでして〜とか言ってみるが、しまだに分からないよー!と言われたので、断念して、というか、自己紹介なんて無意味である。いや、無意味とは思わないけど、「自分」の要約としての自己紹介はどうしてもできない。ので、さっさと意味不明な自己紹介は切り上げて、本題へ。しどろもどろ気味に、祝いのことば、妹のことば遊びノートを朗読する旨、そのことば遊びの説明などをし、五十音のどれからいきましょう、リクエストなどあれば、としどろもどろ気味に。で、リクエストをもらいつつ進行。築港ARCのポッドキャストのときと同じくゆっくり2回読む。2回目はだいたい笑い声でかき消される。ということは、けっこう受けたということだけれど、最後らへんのひとつだけ1回目を読んだ後、シーンとなって、それをいう前のしゃべりの間が悪かったのかだんだん飽きてきたのかで、こりゃ潮時だと思い、次で終わらせる。いちおう最後のはまた受けて終了。あとから思ったけど、これはもう「芸人」の領域だ。「お笑い芸人」ではなく「笑わせる(笑ってもらう)技術を持つ人」としての「芸人」。天牛書店でうっかり買って読みだしてしまった木田元ハイデガー存在と時間』の構築」はどこかきりのいいところでいったんお休みして、マルクス資本論 1」、保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」、東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて」に戻りたい。長ねぎ入りサッポロみそラーメンを食べながらみたテレビのあとに、保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」は「9 のしかかるような空を見る。すべては垂直に落ちて来る。」をひきつづき読むけれども睡魔に襲われたため、リビングの机に突っ伏してうつぶせに寝ると、胃が圧迫されるからか、げっぷがやたら出る。