いま今年はじめての電気ストーブを点けたら、今年はじめてにふさわしく、ほこりが燃える臭いがする。においには匂いと臭いがある。まず結婚式。というよりも、FLOATオープニングとか9月14日のとか、もろもろ書きかけ、9月14日については書き始めてもいないから、時間をみつけて書き始める、というよりもむしろ、思い出し始める、という方が近くて、書くことより思い出すことが重要で、まず結婚式。書こうと思えばいくらでも書ける(思い出せる)し、さっさとお風呂に入りたくもあって、どうやら神父さんは他の神父さんとはちょっと違うらしい。わりと語る人らしい。他の人はあまり語らないらしい。と書いてもいまこれを読んでいる人にはさっぱり分からなくて、その神父さんがなにを言ったかをまず書かないと分からないのだけれど、それは忘れた。愛はいろいろな使われ方をしています。ドラマにも出てきますし、CMにも出てきます。私は音楽が好きなので、I love music.という使い方をしますし、妻に向かって、I love you.と言ったりもします。しかし、本当の愛は言うだけでなく、行動で示すものです。うんぬん。というふうに式中、新郎・新婦に語りかけていた。神父さんは長い髪をうしろで束ねていた。式場スタッフの美人率が高い。披露宴とは言わず、結婚パーティと言っていた気がする、進行役というか司会者のような女性は。結婚パーティ会場に入り、イスに置かれていた引き出物は、MoMA Design Storeの袋に入っていたので、こりゃいいものだ、と思った通り、家で開けてみると、柳宗理のカトラリー一式。と箱に入った高級そうなお菓子。シャンパンを2杯とビールを1杯、ワインを1杯、ウーロン茶を2杯飲む。イワシの腹にタラコを詰めたものにクリームソースをかけて焼いたみたいなやつと、高野豆腐にのりソースとなんかのナッツをのせたみたいなやつと、もう一個は忘れた。その3つがひとつの皿に乗った状態で、まず最初の一皿。みんなデジカメを持ってきていて、パーティではあらゆるタイミングで写真を撮りまくっていて、新婦の父も撮りまくっていて、私はデジカメも持っていかず、というか、持っていくかどうするかすら考えなかったので、目に焼き付ける、とまではいかないが、写真を撮らずともけっこう憶えているものなので、とりあえずみんなが撮っているときには、写真の構図を考えるときによくする仕草、右手と左手の親指を立て人差し指をまっすぐ伸ばしあとのみっつの指はたたみ(鉄砲のかたちというか、むかしのチョキというか)、右手の親指は左手の人差し指につけ、左手の親指は右手の人差し指につけ、カメラのフレームみたいな枠をつくる、仕草をする、とりあえず。右隣に座っていた新婦の友人の女性とは目も合わせず、左隣に座っていたKざわとバカ話をひたすらする。Kざわは、小説にしろ映画にしろ、途中でやめてしまうことが稀にあるらしく、それがなぜかというと、その時点で面白さを十分に味わったからだという。面白くないからやめるのではなくて、ここですでにもう十分面白いからやめる、と。これはなんというか面白い。そこからさきを自分で補完している、とかいうとちょっと違っていて、それはまあそうなんだろうけど、どっちかというと、その小説なり映画なりを「自分のもの(こと)として」読んでいる、観ている、ということかもしれない。「自分ならこうする」を超えて、もう「自分のもの」。これはわりと受容の態度としては、ひとつの理想形のような気がしつつ、これは帰りの阪急京都線の烏丸から十三のあいだで聞いたこと。あとは、フォアグラのなんとかとゴボウのサラダとか、マツタケのなんとかとかいうツミレみたいなのとか、なんとかとマイタケのなんとかを司会のお姉さんはなんとかとマツタケのなんとか、と言っていたりとか、シャンパンは美味しいシャンパンだったらしいとか。二次会の席でみんなが新婦に向かって口々に〜〜が美味しかったよ、と言っているときに、パンが美味しかったと言ってみたり(実際に美味しかった)、何人かでしている話の「流れ」を読まないことを「空気を読まない」というらしいことが分かって、つまり話の腰を折ったり、脱線させようとしたり、オチに行かないようにしたり、まとまらないようにしたり、すると、KYなのである。とはいえ、これは、何人かで、複数人での話の場合であって、2人だと大丈夫な気がすると書こうと思って、いままさに書いてはいるけれど、2人でも大丈夫じゃないというか、2人でも上記のようなことをするとKYなのである。つまり、直線的な起承転結を繰り返す「話の流れ」を邪魔するとKYなのであって、とはいってもそういうふうにあらゆる物事に「起承転結」を押し付けるから物事が貧しくなるのであって、そもそも物事が「起承転結」で構成されているわけではなく、人間がそういうふうに再構成しているだけで、まあこれは「因果」と言い換えてもいいのだけれど、ややこしいので今日はもういいや。昨日は階段に銀色のフックみたいなのを両面テープでくっつけてコードを固定しながら、KさんやMさんといろいろお話し。ライフゲーム(セルオートマトン)の仕組みをうまいとこ説明できず。セルオートマトンの振る舞いをビートに置き換えると、alva notoっぽくなる、というはなしをしたかったのだけれど。大湊でも6人でいろいろお話し。Mさんの言われるように、芸術とはなにか、とか生きるとはなにか、よりも、まずは「つくる」ことから始まる。そこを起点に、芸術とはなにか、とか生きるとはなにか、を、どう考えていくか、どう遊んでいくか。私にとっての「つくる」は「考える」のような気がして、自分の「考えたこと」に対して「考える」ことになる。今日つくったレンコンカレーのレンコンがちょっと多すぎたが、美味かった。明日は出かける前におにぎりをつくる予定。新婦の父があいさつをしにテーブルに回ってきて、私はあなたたちとそう歳も変わりませんから、とか言ってみたり、デジカメのフラッシュがつかなくなったと私の左隣のKざわのところにやってきて、Kざわがひとしきりいじったあと、ちょっと撮ってみます、お父さん写ってください、あれ、つきませんね、というわけでどうしようかというとき、被写体が悪いんですかね、と言ってみたり、ひょうきんな父。