昨日は22時くらいに家に着いて、平形めし茶碗やもろもろ商品のつまったサンテナを車に積んで福岡に着いたのはたしか16時半くらいで元祖長浜屋に行くもなぜか店がなくなっていて近くの姉妹店(?)しか営業してなくてそちらへ。なんとなく麺が太いような。そしてなんとなくこしょう味。なくなった(?)元祖長浜屋とはぜんぜん味が違うな。いまちょっと調べてみたところ、いままで行っていた元祖長浜屋は本店で、この本店の方は平成20年4月8日午前九時、閉店、したらしい。入り口になにか張り紙がしてあったので見に行ってみると、業者様へ、納品はなんちゃらかんちゃら、こちらの電話番号へどうちゃら、というもので、関係ねえやと思った次の瞬間にうちの親父は車を30分100円パーキングから新店の駐車場に移すべく乗り込んでいた。張り紙なんてどうでもよいかのよう。ほいで、ラーメン400円に替玉100円替肉100円で、替玉をしない親父は私の替玉をすこし拝借。なぜ替玉をしないかというと、来る途中に白山陶器に寄り花器を受け取って波佐見のインターから高速に乗る前にパン屋に寄ってラスクを買い道中食べたからで、ここの、というか店名も知らないので「どこ」と名指すことができないけれど、ここのラスクは美味しい。いままで食べたなかでいちばん美味しい。そして牛乳もここで買ったけれど、たしかグリコの、あまり美味しくなくて、賞味期限が明日に迫っていた。たしかに開封して冷蔵庫にしばらく置いておいた牛乳の味ではある。もちろん開封はしてないけれど。レジに持っていく途中に二袋持っていたラスクのひとつを床に落としてしまったので、何枚か割れたが、結果的にはその何枚かは食べるときに割らなくてすんだのでよかったよかった。ラーメンを食したあと、なんという地名だったか教えてもらったけど、そしてその地名を聞くとおお知ってる知ってる、と毎回思い出すのだけれど、忘れてしまった地名のところにあるとある雑貨屋というかインテリアショップにて搬入作業をし、ひっそりと私だけおいとまする。2分ほど歩くと大通りに出るので、タクシーで博多駅に行け、とのことなので、そのようにすると、2分ほど歩く途中にバンみたいな割と大きめの車で営業している持ち帰り専門カフェがありすこし気になるがそれよりもウンチをしたいのでスルーする。見た感じ移動はしなさそう。最初にきたタクシーは誰か乗っていて、次のやつは乗っていなかったが、手を挙げそびれた。それから横断歩道から少し離れたところに立ちやってくるタクシーの様子を窺う。空車かどうかは遠目には分からず、それが分かった距離から手を挙げる気持ちをつくろうとしても無理で、手を挙げそびれる。空いているかどうかとは別に常に手は挙げておくものなんだろう。でも、手を挙げてもいないのに、なぜか一台のタクシーが私のいるところを少し通り過ぎて止まったので、走り寄るとドアが開く。乗り込み、博多駅へ。ドライバーの携帯が二度ほど鳴っていたような。手を挙げていないのになぜ止まったのかを聞きたくてうずうずしていたが、すこし様子をみる。で、なんのきっかけだったかは忘れたが聞いてみると、1.横断歩道から離れて立っている人はたいていタクシー待ちである。2.いったん止まってみて違うならそのまま発車すればよい。3.なので、怪しかったら止まってみる方がよい。といったようなお答え。今年のお盆の金曜日はいつもの金曜日と違いお客が少なくて非常に困ったとのこと。最高でも4万円くらいだったとのこと。やっぱり考えて走らせないとお客をつかまえられないとのこと。1時間走ってだめならタクシー乗り場に並ぶとのこと。そこだと待っていれば必ずお客が来る。それで流れが変わることもあるとのこと。博多駅に着き新幹線乗り場と書いてある方へ。みどりの窓口で指定席をとる。あと30分ほどあるので、どうしようかと思いいったん階段を降りてみるが、思い直してまたエスカレーターに乗り新幹線乗り場の方へ。改札を通りまずはトイレへ。和式と洋式ひとつずつ空いていたが、和式はなぜか便器の端に誰かのウンチがついていたので、洋式に行ってみて、フタを開けるとこちらにも誰かのウンチと水とトイレットペーパーが。流してみる。流れない。なので和式へ。和式へ用を足していると、洋式に人が入る音が聞こえそのあと水を流す音が聞こえ、あきらめて外へ出る音が聞こえる。こちらやとなりの和式へノックする気配はない。私が出る直前にまた洋式へ人が入り水を流す音が聞こえる。出て、洋式のドアを見てみるとドアは閉まっていて使用中。あれは流れたのだろうか。それともそのうえから重ねていくのだろうか。改札と同じ階にあるベンチで新幹線を待つあいだ、エスカレーターで注意を促すアナウンスがうっとおしいので録音する。録音するとは対象化するということでもある。それ以外にもいろいろあるだろうけども。そうこうしていたら時間が来たのでホームへ。14号車。5のAやったかな。車中ではなぜかやたら眠くて岡山あたりまで寝たり起きたり水を飲んだり頭の上の棚に置いたリュックを見たり。前の席のサラリーマン二人組がずっとしゃべっている。主に窓際に座った若い方。ずーっと後方の入り口にいちばん近い座席のあたりのおっさん連中もずっとしゃべっている。内容は忘れた。前の席のふたりのも同じく。そんなちゃんと聞いていなかったので。岡山なんて来ることないっすよね、と岡山に止まったときに言っていたのは憶えている。岡山から新神戸まで保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」、「7 主体の軸となる現実は……」を引き続き読む。新神戸に着くあたりでこの章を読み終わりそうだったけれど、無理はせず。「6 私は夢見られた」あたりからがぜん面白さが増す。それまでも面白いけど、ここからはまた別の次元。柴崎友香「主題歌」についてのはなしが面白い。というか、ここで語られる「主題歌」という小説が面白そう。ではあるがたぶんこの小説は読まないと思う。読めないというか。保坂和志さん経由でしかこの小説については知らないのだけれど、そういうふうに間接的であるにもかかわらず、「主題歌」が突きつけてくるものは重い。なんというか、小説としてリアルであるとかいうまえに、ここで語られている(であろう(あくまで間接的だから))ことがらは、フィクションではなく「現実に私が知っていて」「現実に私が直面している」ことがらだからだ。「主題歌」に出てくる人物たち、ひいては作者をも含めた「貧しさ」という生き方(?)を保坂和志さんは割と肯定的に書いているけれども、私にとってはそれもまた息苦しい。実のところ。バイトをしながら絵を描いていて個展やグループ展をやったりたまにはインディーズバンドのCDジャケに絵が使われたり、というような人物たちが「主題歌」には出てくるらしいが、なんちゅうか小説中の人物とは思えないくらいに、私には身近な人物像というか、あえてカテゴライズするならば、自称でもなんでもいいが、専業ではなくそんなに売れているわけでもないアーティスト、とでもいえばいいか。そういう人たちをまとめて「アーティスト症候群」として「外側」から揶揄するのはとても簡単だけれど、かといって肯定的にとらえるのもちょっと難しかったりする。なぜだろうか。と書いて、何行か書いてみたけれど、なかなか捕まえられないので、ここでやめにする。自分のやりたいことでお金がもらえなくても、バイトしながらでも、自分のやりたいこと・好きなことをやる、というのは素晴らしいと思う反面、微妙な違和感もあるというか、なんといったらいいか。この違和感はなんだろう。そんなふらふらしてないで就職しろ!とかそういうものでないのははっきりしているけれど、じゃあなんだ。「こだわり」というかたちで、他人と絶対に折り合うことのない領域がつくられてしまうからか?いやいや、その「こだわり」をお互いに腫れ物に触るように不自然に尊重しあうことが気持ち悪いのか?うーむ、ちょっと違うかもしれない。分からんな。音楽の人たちはどうか分からないけど(私自身そんなに多くの人に関わるわけではないので、、)、美術の人たちは横の繋がりがすごいように思う。最近は美術系の人たちに遭遇する機会が多いのだけれど、みんないろんな人を知っていて知り合いか友人だ。これはすごいと思った。昨日は22時くらいに家に着いたあと、キムチ鍋を温めて食べる。21時過ぎには六甲道に着いていてツタヤで、「ハウルの動く城」か「千と千尋の神隠し」のどちらを借りるか迷っていて、翌日17日の1時あたりには「千と千尋の神隠し」のチャプターでいうとたしか13からを繰り返し見る。なぜならあのお風呂屋に勤めているカエルがカオナシに出会ったときのセリフの確認と言い方や声の感じを憶えるためで、2時半くらいには、友達の結婚式のときに流れるビデオレターの収録を終える。ビデオレターというからには動画であるはずなのだけれど、私だけ静止画と音声だけで、厳密にいえばその音声の収録を終える。みんなでビデオレターを撮影する日に私は実家というか生まれ育った家に帰っていたので、しょうがなく静止画と音声を送ろうかということで。お祝いのことばとなぜ静止画と音声だけなのかという説明とさっき書いたカエル(というより我修院達也さんだけれど)のものまねをして終了。「おぬし なにものだ? 客人ではないな そこに入ってはいけないのだぞ」。これはかなり前から18番でちょくちょくやっているのだけれど、再確認のためにDVDを借りる。「ハウルの動く城」にもあの炎の役で我修院さんは出ているけれど(声優で)、ハウルの時の我修院さんはちょっとおとなしいので、千と千尋のカエルで。DVDの当該箇所を何度か見たあと練習してみたが、なんかいまいちで、最初の勢いがないと失敗する。何度か録って編集したらいいかと思っていたけどそれも面倒なので、一発OKにする。とか書くと、ネタバレになってしまうのでよくないのでは、とふと思ったけれど、その友達の結婚式に来る人でここを見る人なんて1人か2人くらいなのでよかろうよかろう。どうやろう。追記。ちょっと分かったかも。なんか思いついたら「分かった!」っていう人がいる、よく。「分かった!」じゃなくて「思いついた!」だろ、と思う、よく。最近はないな。「貧しさ」という生き方(?)を実践する人たち、つまり経済的な安定も社会的な地位にも目をくれることなく「自分の好きなこと・やりたいこと」をやる人たちは、それに伴う不安定さを受け入れる、というよりも、「自分の好きなこと・やりたいこと」を信じきる、ということで不安定さを相殺しているように見えて、私にはそれはできない、というか、「自分の好きなこと・やりたいこと」を私は信じていない。少なくともやりたいこと、というよりも、やらざるをえないこと、というか、なにかを頼まれたりやることになったからには、なにかしら考えるわけでその過程で生じること、といった感じなので、別に純粋な「自分のやりたいこと」をやっているとは思えないし、思ってもいないし、そもそも「自分のやりたいこと」がなにかなんてぜんぜん分からないし、それは「自分のやりたいこと」がやる前に分かるとも思えないからかどうかはさておき、やる前から「これは自分のやりたいことかどうか」とかそういうことは一切考えないし、それは無駄だとも思っていて、なにをやろうが、なにかしら自分の考えごとに結び付けることができるので、やることを考えごとに強引に引き寄せるにしろ、やることの流れにまかせるにしろ、なにかをやれば、なにかにはなる。うーん、いやいや、それは関係ないな。それをいうなら、経済的な安定も社会的な地位にも目をくれることなく「自分の好きなこと・やりたいこと」をやる人たちもまた「自分のやりたいこと・好きなこと」が分からないだろうし、それに振り回されることには変わりない。波佐見から福岡に行く道中、親父が商学部出身だったことを思い出して、大学の授業に経済学あった?ミクロとかマクロとか。いまミクロ経済学の初歩の初歩の入門書を読みよっとばってん、価格や需要の「弾力性」がいまひとつ分からんというか、いきなり第一章の練習問題から分からなくてどう計算しても答えにたどり着かないので、どうしたもんか、計算というか思考のプロセスまでは巻末の答えには書いてないし、たしか米の値段が300円のとき需要は1000万トンあって、値段が120円に下がるとき需要は72万トン増えると予測された。ここで仮定されている需要弾力性を求めよ、みたいなので、計算は難しくないはずなのだけれど、とにかく分からない。親父に聞いてもそんなこと分からんぞ、とのこと。ちょっと落ち着いて、いままたやってみよう。需要の変化の割合(%)÷価格の変化の割合(%)が(需要の)弾力性なので、それぞれの変化の割合を%であらわさにゃならん。で、どうなるか。300円から120円に変化するときその変化の割合は−60%。で、1000万が1072万になるときその変化の割合は+107.2%。というわけで107.2(%)/60(%)=1.78666666666666666666666666666667で、これに−をつけて、答えは、違う。。なんだ、なにが違うのか考えてみたところ、ここで厄介なのは、価格や需要の変化率を%で表すとき、上昇は「+」、減少は「−」で表すということで、300の40%が120だけれども、「−」で表そうとすると(というより〜%減少した、ということ)−60%ということになる。で、さっきの、1000万が1072万になるときその変化の割合は+107.2%である、というのが間違いで、「+」がつかなければ107.2%でいいけれど、「+」がつくので7.2%になる。というわけで、7.2/60=0.12、で、−をつけて−0.12でめでたく正解。予想通り、経済学とぜんぜん関係ないところで間違っていた。