やっと今日から36度台になって一時37度もあったけれどもだいたい平熱で、とはいえ喉痛と頭痛はひきつづき。頭痛がなんだかひどい。耳も痛い。喉の痛みから耳の痛みに至ることもあるらしい。よこになっているとよけいに頭が痛いので毛布にくるまって壁に寄りかかり浦沢直樹「20世紀少年 22巻」を引き続き読む。ここ4日くらいはもう本ではなくマンガを読んでいて、なぜかというと活字が読める気がしないから。「20世紀少年」は妹がいきなりブックオフのネット通販かなんかで大人買いしていて、一度最後まで読んだことはあるのだけれど、こうして最初からずっと続けて読むと分からなかったことも分かってくる。そうか、"ともだち"はふたりでひとりだったわけだな。これかなり長いけど、どうやって映画の尺に落とし込むのだろう。3部作だっけ。あ、でもいま映画の公式サイトみたら脚本に原作者がかかわってるから大丈夫か。どうやろか。今日の阪神-巨人戦はいい試合だったような。巨人強いな。闘病生活も一週間目に入ってやっと終わりが見えてきた。なんか昨日からいろんな単語を言い間違えたりすぐに思い出せなかったりするのだが、これは高熱の後遺症とかじゃなかろうか。どうやろか。闘病中はもっぱらAndrew Deutschの音楽を聴いていて、この人のだけで20枚くらい持っているのだけれど、おすすめは「Organic Fields」、「Garden Music」、「Global Economy」か。Andrew Deutschブームの火付け役になったTetsu Inoue & Andrew Deutsch「Field Tracker」もよいです。でも日本での一時の局所的なブームも去ったようで、たぶんどれも入手難かと思われます。ある程度最近のAnomalous Recordsから出たやつとかはCD屋を探せばあるかも。Anomalous Records自体はもうないですが。本人のCDRレーベル「Magic If」が今も活動しているのかどうかは不明。ちなみに「Garden Music」の一部はoval「ovalprocess」10曲目「blus」にサンプリングされています。なんか一時期一部の人たちがAndrew Deutschを紹介する際にovalにサンプリングされた男!みたいに紹介していて、なんのこっちゃ。だからどうやという。大阪もそうなのかもしれないけれど、東京はいろいろと「売名ゲーム」みたいな感じなのだろうか。別に私はそういうことにさして批判的でもないし実力なんてあとからつけたらいいしそもそも知られなければ何も始まらないとか思うのだけれど、とはいえ売名ゲームに乗っちゃうとずーっとお祭り騒ぎをしないといけないので面倒臭い。俺はここにいますよ!こっちは甘いよ!楽しいよ!表現していますよ!って。そんなの面倒臭すぎて耐えられない。だから乗らない。でも、売名と広報は違う。あとたしかにお祭り騒ぎ自体が好きな人っていうのは確かにいる。お祭り騒ぎ自体が目的の人も。表現なんてどこまでいってもパーソナルなものでしかありえないのに。そういう人たちにとっては、もはやどんなものでも「御輿」になるのだろう。音楽でも美術でもデザインでも。やっぱり、結果的にどうなるかとは別に、なぜお祭りをするのか、お祭りによってなにがどう変わるのかあるいは変わらないのか、などなどあらかじめ考える必要がある。というか考えたら楽しい。というかそのへんがいわゆる責任だと思う。自分のやりたいことだけをやっていたらいい、というのは果たしてそうか。自分のやっていることは社会にとってどうなのか、という視点が抜けた表現は正直なところかわいそうだと思う。孤独だから。それも自分でそうなるようにしてしまっている。この前三宮センター街ジュンク堂でタイトルにひかれて立読みした、オクヤナオミ「余白は芸術に関係がない-が、ひとつのフォルムである。」のあとがきより。悪いとは思いつつも立読みしながら少しずつ覚えて携帯にメモした。

美術家というのは、基本的にひきこもりの傾向の強い人種で、他者とのコミュニケーションが成立しない。世間と断絶した状態、孤独で絶望しているという条件のなかで会話しようというのが美術家の美術作品の魅力である。

ここに書かれていることが本当なら、そこそこ本当だと思うけど、そして多少は共感もするけれども、そういう美術家(というよりたぶんなんらかの「作品」を「つくる」人種すべて)を甘やかしてはいけないな!と思った。この場合、会話ではなく一方的に話し掛けたいだけなのだ、ここでいわれている美術家は。自分の得意なことだけで他人と関わりたいのだ。でもそんなのおかしくないか。プライドが高すぎるだけじゃないのか。負ける技術を磨いた方がいいんじゃないのか。私自身の個人的な感覚なのだけれど、いまの時代、個人の孤独とか絶望なんてものは当たり前すぎて、あえてそれを表に現す必要もないんじゃないかということと、それと同じ理由により、個人の孤独とか絶望なんてものは表現の条件にも要件にもなり得ないのではないかということで、もちろんそれがないということではなくて、孤独とか絶望は個々の人間が死ぬまで大事に抱えていけ!他人に頼るな!というのが私の思うところなので、なんというかそこを軸に会話を持ちかけられてもちと辛い。とても絡み辛い。そもそも孤独とか絶望に意味などない。それは改めて確認するまでもない、ただの事実だ。ニヒリズムとかじゃなくて。そもそも私はものすごく楽観的だし。おっ、4日間風呂に入っていなくて髪の質感がおかしくなってきたので、いいかげんいまから入ろうと思います。