北野武14作目の監督作品、「アキレスと亀」が9月20日(土)からロードショー。ということで、何年か前に3年くらい前か、ゴールデンウィークの前に首にできたできものを切除してお風呂に入れなかったときに、よなさんとみつくんと3人でコンピュータやらなんやら楽器やら持って六甲山に登ったことがあって、特に計画もなく、そのへんの裏山に上るくらいのつもりで途中いろいろ寄り道して録音したりしながら登って、だんだん暗くなってきても山頂にたどり着くのかどうかさえも分からず、私が買っておいたチョコレートをみんなで分け合い無言でひたすら登り続けて、やっと頂上っぽいところに辿り着いたかと思うと、道路があって車がばんばん走っていて、道路を渡って本当の頂上に向かおうとしたときに、一台の車がブイーと頂上へ向かう道のところにやってきて止まりバムッとドアを開けてバムッとドアを閉めて一組のカップルがテクテクと歩いて頂上に上っていったのを見た、というはなしを前の会社の人にしたら、それ北野武の映画みたいだなと言っていて、たしかにそうかもしれないと思う。自分の無力さを状況からうっかり知ってしまうというか。セリフとかことばじゃなく。今日もまた神戸アートビレッジセンターにてもろもろ雑用など。昨日や一昨日に書いたこともそうなのだけれど、私は個別的で具体的なことをあまり頭で考えたりしない、たぶん。それについては起こること・起こったことを見るしかないと思っているから、というのもあるけれど、個別的・具体的なことを見るための基礎付けをまず頭で考えて、やっておきたい、というのがある。昨日や一昨日に書いたことでいえば、いきなり抽象的な「芸術」なるものについて語っているわけで、そこで語られる芸術が具体的に「どのような」ものか、については空白のままである。だいぶ前に「三太」に書いたフィールド・レコーディングについての文章についても角田俊也さんから「なにを」「どう」録るのかの視点が抜けている、というような指摘をいただいたけれども、これはまさにほんとそうで、たぶんこれも同じことなのだろう。「なにを」「どう」録るかというよりも、録ること・記録することで私たちになにが起こるか、記録するってなんだろうか、ということをいつも気にしているので、これはもうしょうがないとしかいえない。。でも個別的で具体的なところから積み上げていかないとぜんたいがフワフワするので、よいことではなくて、ちょっとなにか考えよう、それについても。ちょっとはなしを戻すと、個別的で具体的な「なにか」を想定することなく、そのなにかと私との関係についての抽象的な考えをすることは、「なにか」になにが代入されても、なにかしら対応できるようになりたいからで、もちろん私が。とにかくなんでも面白がりたいので、そのための準備を常にする、ということで、具体的にどういうものが面白いものかを考える必要など全然ない。まだ見ぬ面白いものを夢みる暇などない。面白いものにはいつもうっかり遭遇してしまうもので、というか、発生してから消滅するまで、最初から最後まで、未来永劫面白いものなんてなくて、面白いかもしれないものを、面白いかもしれない、と思ってはじめて面白くなるので、そういうピント合わせというかフォーカス合わせの訓練は必要だと思う。とはいえ、なんでも測れる定規をつくりたいわけではなくて、とにかくなんでも面白がりたいので、ひとまずあらゆる個別的で具体的なものからいったん距離を置いてみる、ということかもしれない。