3日、日記を書かなかったということは、たんに3日出払っていたということで、最近つくづく思うのは、最近というよりもうすうすはずっと思っていたのは、私が誰か特定の人と面と向かってはなすときと、この日記を書くときとで、かなりその内容が違うということで、どーでもいいようなことは同じだけれど、それ以外のところはまったく違う。なんでかなとさっきすこしだけ考えてみて、この日記はかなり適当というか、読んでもらえれば分かると思うのだけれど、自分のなかで固まって「いない」ことを主に書いているような気がする。じゃあ、誰か特定の人と面と向かってはなすときは、それなりに自分のなかで固まって「いる」ことをはなすのかというと、そうとも言えないけれども、少なくとも日記の方が明らかに固まって「いない」。固まっている/いない、というか、それなりに時間をかけて考えを蓄積して「いる」か「いない」か、というか。それで、この日記はその「時間をかけること」のひとつのような気がする。あとは、にんげん、文章を書いているとうっかり書かなくてもいいようなことまで書いてしまうもので、ふつうはそういうのは削除するもんなんだろうけど、その自分の「うっかり」を次の足がかりにしたい、というのもある。だから、自分の書くことが自分の言いたいことを表しているかどうかはほんとに二の次で、とにかくなんでもいいからたくさんことばを出してまずは思考の場をつくること、そして自分の「うっかり」から次に進むこと、のふたつが私が「書く」ことに期待していること?イマヌエル・カント判断力批判」はやっとこさ序論を読み終えて、本論に進む。序論はさっぱりなんのことやらという感じで、部分的に納得できるくらいには理解できるところもありつつ、トータルではさっぱりなんのことやらだけれど、本論に入るとわりかし読みやすいし理解しやすいような気がする。序論ではやたら、ア・プリオリに、とか、ア・プリオリな、とかいうので、いやいやなんの説明もなしに使っているそのア・プリオリってなによ?と問いたい。意味は調べればなんとなく分かるけれども、非常にイメージがしにくい。この概念は。使いにくいというか。ウィキペディアの「ア・プリオリ」の項には『経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念』とあるが、たぶん先立つとか先立たないとかじゃなくて、それがなければ先立つも先立たないもないような認識や概念のことかしらと思う。でもそんなの非常にイメージがしにくい。だからぽんぽんア・プリオリに、とか、ア・プリオリな、とかいわれるとその度に、ア・プリオリについて思いを馳せないといけないので、面倒臭い。今日よなさんちにてアサダ君と蛇谷さんとよなさんとそれぞれの会話に入ったり入らなかったりしつつ私が得た収穫は、人間においては、なにかを為すということはとりもなおさず閉じることである、ということで、なにかを為すにはとりもなおさず閉じなければならない。閉じる、すなわち、為す「範囲」を定めるということで、「範囲」を定めるということは内と外の区別をつくるということで、それはそのまま(内に)閉じることでもある。だからそもそもの成り立ちにおいて「閉じ(綴じ?)」を含む「なにかを為すこと」を開くというのはどういうことかということで、いまみたいに考えてみるとそのややこしさ・難しさが分かる。あるひとつの「為されたこと」はそれを為すために定められた範囲の性質・属性を通じて、それを受け取る人の範囲をも(結果的に?)規定するわけだけれど、ことが「為された」あとに、事後的に、情報の置き方やなんかで、受け取る人の範囲を(仮想的に?)拡張したところで、どの程度の変化があるのか疑わしい、という問題もある。ということもあって、ここさいきん私が試しているのは、『それを為すために定められた範囲の性質・属性を通じて、それを受け取る人の範囲をも(結果的に?)規定する』という仮説が正しいとしてだけれど、ことが「為される」まえに、事前的に、その為すことの範囲を拡張する、しかも範囲の「次元」を拡張することで、結果的にそれを受け取る人の範囲(の次元)をも拡張できないか、ということ。ミソは単純な範囲の拡張ではなくて、「次元」を拡張してしまうこと。とはいえ、これだけでは、他人が欲しがることを為す、他人が欲しがるように為す、ことにもなりかねなくて、こうなると非常に空虚なので、やはり事後的な、受け取る(であろう)人の範囲の拡張も、仮想的であるにしろ、やらないといけないのかなと。なんだかややこしい物言いなのは、あくまでもはなしを一般的にしようとしているからで、言い換えじゃないふうに言い換えると、自分のやっていることの「範囲」をがちっと固く決められさえすれば、それを誰に届けるべきかも分かるということで、そのうえで、届けるべき誰かを裏切ってでも届けるべき誰か「以外」の誰かにも自分のやっていることを向けるべきかどうか、ということ。といっても私自身は自分のやっていることが言及する範囲をがちっと決められずにいるので、そもそもその時点で躓いている。だから「届けるべき誰か」なんてそもそもいない。自分を含めてあらゆる人を裏切るつもりでやるしかない。すくなくとも、「音楽」という範囲にも「芸術」という範囲にも言及するつもりはないし、じゃあその両方にまたがって言及するのかというとそういうつもりもなくて、なんというか「音楽」も「芸術」もその一部として含むような広い範囲に言及したい。とか考えているからぼやーっとして範囲が定まらないのだ。さっぱりよく分からない。カントがどうこういう前に。おっ、そうだそうだ、サンダー、じゃなくてダンサーって打とうとしたのに、なぜかダンサーの「サー」を先取りしてしまいうっかり雷になってしまったけれど、ダンスを活動の軸にしていらっしゃる高野裕子さんのサイトからリンクをしていただきました。→http://www.you-reve.com/ 正直なところ、「リンク」って懐かしいなー、学生の頃にネットを彷徨っては趣味の合う友達を見つけ「リンク」しあってたなー、とか思ったのですが、でもよくよく考えると、うちに来たんやったら近所の〜〜さんちにも寄って行きなさいよ、という感じで、なんというか下町というか長屋っぽくてすごく良いなあと思います。「検索」で知りたい情報に直にアクセスするよりも、ネットの「網」を通じて知るつもりもなかったような情報にうっかりアクセスしちゃう方が楽しそうといまさらながらに。いろんなもののあいだに「網」を張っていかないと、ますます「検索」による点から点の移動になっちゃう。この日記がものすごく雑多なのは、いろんな人の「うっかり辿り着いた」を誘発したいからというのもあって、たとえば「Perfume」がどうとか「唐沢寿明」がどうとか「無印」がどうとか「D&DEPARTMENT」がどうとか書くと、そのワードでうっかりたどり着いてしまう人がいるわけで、その人たちがどこまでその箇所以外のところを読むかは分からないけれど、そういうぼやっとした広がりがあった方がいいような。