今日は家から出てなかったので気分転換の散歩がてらツタヤに行ってみて「アップルシード」を見たよしみで「エクスマキナ」を借りてみて、見てみたら、顔の違和感はちょっと緩和されていた。いや、けっこう緩和されている。「アップルシード」がひどすぎるのか。「アップルシード」は音楽の繋ぎ目もなんか変だったりして、1シーンにふたつの曲が使われていたりして、シーンは途切れてないのに曲と曲の繋ぎ目で音楽が途切れたりして気持ち悪い。具体的には、えーとあいつ誰だっけ、主人公の、うーんと、分からんな、思い出した、デュナンがオリュンポスにやってきた次の日に人美と車で出かけながらオリュンポスの説明を聞くシーンで、最初アクフェンがかかってて次は誰か知らんけどとにかくシーンは終わってないのにふわっと急にアクフェンがフェードアウトして次の曲になる。なんかこれが気持ち悪かった。攻殻機動隊もそうだけど、なんで戦闘からはなしが始まるのだろう。テロ発生!とか、ガイノイドが暴走!とか、立て篭もりが発生!とか。必ず最初に中規模の戦闘シーンを配置してから物語が始まる。で、最後にものすごく派手な戦闘があり、ラスボス的ななにかしらを倒してめでたしめでたし、と。「アップルシード」は多脚砲台、「エクスマキナ」はあー、あれなんだっけ、なんかの組織というかチームというか、ポセイドンって企業国家の。思い出せないし検索しても出ないので、DVDで調べるしか。あとどうでもいいけど、ふつうDVDって再生したらそのまま本編再生なのに、「エクスマキナ」はメニュー画面になる。あーでたでた。ハルコンだ。「エクスマキナ」では、それの研究所だかなんだかがあった、海上の空に浮かぶ無重力なんとかと、そこにいるサイボーグみたいなのがラスボス的ななにか。途中までは面白いのだけれど、「あそこに行きさえすればすべてが分かる!」とか「あいつさえ倒せば万事解決!」みたいになってくるととたんにつまらなくなる、なんでも。なんかもうある一点にすべてがぎゅーっと収斂していくのがつまらない。そう思うと押井守の「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」と「イノセンス」は、あんまりそんな感じがなくてすごいなあと。と思ったら、「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊2.0」なるものが今年の夏に公開されていたようで、ぜんぜん知らなんだ。まあいいけども。スカイクロラよりDMCを見たい。私はちょくちょく芸術がどうたらこうたら書いているけれど、ほとんど芸術には関わってなくて、表現が難しいけれど、いまある芸術産業とか、芸術コミュニティみたいなのには関わってなくて、要するにそういう知り合いもいなければそういう友達もいないということで、いないこともないけど個人としての付き合いというか、少なくとも私はそう思っている。やっぱりどう表現したらいいかが難しいけれど、といっても誹謗中傷にならないように言うには、とかいうことじゃなくて、なにかを作って発表するにはなにかしら流通の経路が必要で、そういう経路・インフラ・仕組み・制度にほとんど関わっていないし、あまり関わろうとも思わないけれど、なぜかというと単に面倒臭そうだからで、なんだかややこしそうだから。誰々さんと誰々さんがどうとか、ちょっとというかかなり面倒臭そう。そんなのに関わるくらいなら読書した方がだんぜんいい。ともかく、がちっとした「芸術」なるものに関わる資格と能力が私にはそもそもない。「音楽」でも「哲学」でもなんでも同じ。そこに関わる資格と能力がない。「あえて自分から出たんだ!」とか言うこともできるだろうけど、そうじゃなくて、たぶん最初から入ってないし入れてないしどうしたら入れるのかもよく分からない。これは正直ちょっと残念だとも思うけれど、それよりも自分の考えたいことを考えるのが先なので、まあいいかと。私が「なにかつくる」・「考える」のは、自分に対するパターン介入のひとつとしてなので(いままでしなかったことをやってみる、いままで考えなかったことを考えてみる)、あんまりそれをことさら「芸術」とか「音楽」とかいうかたちで育てていく必然性も見いだせないし、私が気になるのは広い意味での「人間」なので、自分をモルモットにいろいろ試しているだけで、それをどう他の人の役に立てたらいいかはさっぱり分からない。小学校の4年か5年の頃にまじかる☆タルるートくんという漫画が流行っていて、そこに出てくるアイテムに、徳を積んだら返ってくる、というようなものがあって、それをみた私は、自分はなんて意地悪なんだ!これではいかん!徳を積もう!と思い立ち、思いつく限りで徳を積んでみたら、というか徳を積むというより他人に優しくするということだけれど、クラスメイトのみんなといままでよりさらにうまくいくようになって、自分次第で自分は変わるし自分が変われば周りも変わるな!と気付いたのが割と大きくて、といっても大学ではまた神経質になっていたけれど、社会に出て仕事をしているうちに小学校の頃を思い出してやってみたら非常にうまくいったので、やっぱりそうかと思う。安っぽい自己啓発みたいな感じになってきたけれど、意識して自分を崩す、ほっとくと神経質になりがちな自分を崩す、自分のパターン(性格、ないしは自己同一性・自己イメージ)にパターン介入する、というのは私にとって非常に大事で、偽善も積もれば善になるだろう、というのは前も書いたけど、ほんとそんな感じで、私が人当たりが良いのは、そういうふうに努力しているからで、みんな神経質な奴と会っても面白くないだろうし、なら少しでも面白い方がいいし、すくなくとも不快でないくらいにはしないといけない、というわけで、そういうふうに努力すると結果的に自分の得にもなるなと、会社勤めで会得した。こういうのをメンタルコントロールとかいうのか。どうでもいいけど。「努力」とか言ってもそんな努力しているわけもなくて、慣れたら別に努力でもなんでもない。たんに自分に不利(益)な性格にしがみついている必要はない、というだけで、自分の性格をあたかも不変の自己同一性(アイデンティティ)のように思っている人がたまにいるけれど(そういう人は自分のやることなすこと全ての原因を「性格」のせいにする。その人にとっての「性格」は変えられないものだから。変えられないことは自分のせいじゃないから。自分のせいじゃないと思いたいから)、別にそんなことないぜーと言ってあげたいが、余計なお節介なので言わないし、とはいえ自分にとっての面倒臭いこと/面倒臭くないこと、の区別はなかなか変わらないから、あまりいろいろ言えない。最後に、「自分に正直に」とかよくいうけれど、それなら逆に自分に嘘をつかずに生きている人間なんているのか、と問いたい。自分を騙すのは他人を騙すより簡単で、とかいうよりももっと根源的な部分、人間が人間として在るところにおいてすでに自分で自分を騙しているような気もする。「自分に正直に」・「自分の気持ちに正直に」とかよくそんなことが言えるなと思うだけです。その気持ちが自分に正直かどうか誰にも分からないし、分からないことをいいことに都合のいいように変えてしまっていないかどうかも誰にも分からない。そんな状況下で、自分についた嘘かもしれないことを、言う、ことはとても勇気がいるけれど、言わなければ始まらない。まあでも言わなければ少なくともその嘘(かもしれないこと)は他人に知られることはない。でもそっちに行くのは簡単なので、自分に対するパターン介入のひとつとして、自分で自分についた嘘かもしれないことをこうやって日々書き連ねているわけで、やっぱり何年かやっていると、あー、いま嘘つこうとしているなー、気持ちいい方に・都合のいい方に自分を納得させようとしているなー、かっこよく見せようとしているなー、というのはなんとなく感じられるようになったりする。けど、感じられたところでやっぱりすぐにはどうこうできないので、どうこうしようとしてまた嘘をつくかもしれないし、自分への戒めとしてそのまま書いている。嘘をつきたくない!とか甘っちょろいことを言っててもなにも変わらないので、かっこわるいし嫌だけどしょうがない。そういえば、この前のFLOATオープニングのあと、山本握微さんとアサダ君が「ロストジェネレーションが〜」というはなしをしていて、私もあたかもその言葉を知っているかのごとく振舞っていたのだけれど、実のところそれがいったいなんなのかまったく知らなくて、いまさっき検索してみたら、分かったような分からないような。いちおう私もそれに入っているらしいことは分かった。『まだ見ぬ「やりたいこと」を求め、現実を直視せずに「自分探し」ばかりしている世代――こんな風に揶揄されることもしばしばだが〜』とのことで、これは私たちにばっちり当たっていると思う。というかどのジェネレーションもそこは通ると思うけど。でもたしかに「やりたいこと」呪縛というのは確実にある。なんだろうな、これは。社会に「やりたいこと」を見いだせない若者は、それ以外で「やりたいこと」をやるわけで、そういう二重性・三重性はよく見る。「やりたいこと」をやらないといけない、みたいな強迫観念っていったいなんなのだろう。別に無理してやらなくてもいいのに。自分探しというより、自分が褒めてもらえる場所探しなのか?