はじめまして。おだです。「スターの引用機能で筆者が意図していなかったろう部分を強調する」、面白いですね。おっ、褒められた、と思いきや、んんー、ここがなぜ、、という違和感もあるわけですね。(笑)その違和感から始まることがあると思うので、書き手にとっても読み手にとっても生産的ですね。  「人力ボーカロイド」ってなんぞや??と思ってググってみたところ、だいたいのところは分かりました。私も大学時代は波形編集ソフトでひたすらサウンドファイルをいじっていたので、そのすごさというか細かさがよく分かります。(笑)  kugyoさんにそう言ってもらえるのは正直恐れ多いですね。。(身に余る光栄、とか、ありがたきお言葉、というのは会社の上司に褒められたときに言ってみたかったフレーズなのですが、さすがに言えませんでした)kugyoさんの日記からはいろいろと勉強させていただいています。  おお、理性的な芸術家ですか。私が理性的かどうか、芸術家かどうか、は自分ではなんとも分からないところではあるんですが、少なくとも自分で自分を傷付けるのは好きです。自分で自分を傷付けるためには対象化の技術がいるのですが(そうしないと出口のない自傷行為ですし)、そのへんのことを「精神分析」からぶんどってきたような気がします。いままでつくってきた自己防衛のシステムをどこまで崩せるか、その無意味さをどこまで自分に納得させられるか、いかに自己を不安定な状態に置き変化に備えるか、という。こういうことをしてても、ほとんど自動的というか勝手に秩序の方に人間は向かうようですけれど。。安定というか。いまふと思ったんですが、芸術も広義のエンターテインメントか狭義の批評か、という二極分化があるような気がしました。それ自体楽しむものか、ある問題を様々な切り口から一般化するこころみか。けれども書いてみて、そういうふうに思う(切り分ける)ことそのものになにか問題があるような気もします。

さっきやってみたブログ通信簿。1歳だけ若返り。一時期は23歳とかだった。詩人になれとのこと。一昨日くらいは思想家になれって言われたけど、思想家ってなにする人なのか。とりあえず大騒ぎする役なのか。やべーぞ!やべーぞ!と。こうしたほうがいいぞ!と。思想というよりも、考えるモチベーションはあった方がいいと思う、あらゆるみんなに。おでかけの知識ってなんだろう。美味しいスイーツの情報とか?私には近所の猫のいる場所の情報くらいしかないけども。ああーそうそう、二段階右折ってなんか恥ずかしいんですよ。なぜか。でも私は強引に右折も怖いので、おとなしくやってました。3車線くらいの道路で後ろからバスとかダンプが来ると過剰にビビります。会社に勤めているあいだは必要なくめんどくさいので免許更新に行かなかったら免許を失いました。いまあったら乗ってるなあと時々思います。「失いました」で思い出したんですが、ファミコンのウイザ−ドリイだかなんだかそういうダンジョン探査ゲームみたいなので、「完全に死ぬ」というかキャラデータそのものが消去されることを「うしないました」といいます、たしか。やたらむずかしいので、ちゃんとやったことはないです。いまCDラジカセから流れているのは、リップスライムとくるりの「ラブぃ」。リップスライム「EROCH」がツタヤの中古で500円だったので。前みたときは1000円だった。エポケーか?とも思えるけどエポック。エポックっておもちゃ会社があったなあ。いまもあるのか。どうやろ。昨日の日記で作者と作品の関係を親と子の関係にたとえましたが、決定的な違いがあって、親と子は「類」として同じ(同じ人間)なのですが、作者と作品は「類」としても違う。親と子においては、同じ人間だからこそ、ひとりの自立した人間として突き放すことができる。親は子が自分の「分身」ではないことを悟るからこそ子離れができる。では、作者と作品の関係はどうなっているのか。一般的な受容側のイメージでいえば、これも「分身」とされているようで、作品をけなすのは作者をけなすも同じだと思われている。これと批判と非難の混同があわさってややこしくなっているような気がする。こういう事情があって、作者の方が「作者と作品」を切り離したがらないのか、受容者の方が「作者と作品」を切り離したがらないのか、がいまひとつごりゃまぜになっている。たぶん、ただ単に、作品受容の際の参照先やクレームの矛先がなくなると困る、という受容者と、経済的利益(金銭)や精神的利益(賞賛)の収め先がなくなると困る、という作者との、利害の一致もあるんだろうけど。「責任」がどうとかじゃなくて。作者は作品の責任をとる存在のようでもあるけれど、つくってしまったものに対してどう責任をとるというのだろうか。だいたいなんの責任なのか。クオリティのコントロールとかいっても、それはつくるあいだのはなしで、というよりも、クオリティがどうとかいう場合、前提となっているのは、それを量的に測ることのできるあるひとつの固定された視点(パースペクティブ)で、受容者の方で勝手にいくらでも設定できる視点の責任なんて作者は負いようがないのではなかろうか。そもそもなにかをみるときに価値を「測る」という考え方がおかしい。なにかを測るには測る道具がいるわけで、その測る道具の論理でそのなにかを切り取るということ。そんなことをするよりも、自分の関心に引き寄せてみて、なにか読み取れるものを探せばいいだけのはなしだ。こういう質を量化して測る、という価値生成のやり方は、いつ生まれたのだろう。貨幣の量、金額で測るのも同じことで、1500円払って見たパフォーマンスに1500円の価値がなかったとか、こういう言い方はどうみてもナンセンスだ。。残念ながら。じゃああなたにとっての1500円の価値とはなにか?そもそも答えられない。様々な異なる質のものを強引に同じ形式にぶちこんで、量的に比較可能にするのが貨幣の役割だから。映画が見れる?うな重が食べられる?本が買える?ポロシャツが買える?でも映画とうな重と本とポロシャツとパフォーマンスがあなたに与える満足はそれぞれ異なるでしょう?とはいえ、実感として、強い実感として、「1500円払って見たパフォーマンスに1500円の価値がなかった」という言い方は非常によく分かる。この言い方には私たちが意識せず前提にしてしまっている考え方が表れてもいるような。なぜこういう言い方が成り立って、その意味が伝わることも可能なのか。よくよく考えたら謎なのに。。でも、ひとつ言えるのは、〜円で〜〜を買ったけど〜円の価値はなかった、とかいう言い方って「非難」としてはキャッチーだけれども、なんら「批判」としては機能しない。私はそういう判断をした!私の判断基準はそうだ!って言ってるだけだから。自分の主張の根拠を自ら問わず主張のみする、っていうのは私たちがよくやる勇み足というか間違いなのかもしれない。その基準ってなに?っていうのを問わない構造になってる、なぜか。わざとか。また、すくなくとも、私自身の感覚でいえば、なにかの作品を見て、それをすごい!と思うとき、作者ではなく作品を褒めている。作者ではなく作品に感動している。作者本人に賞賛のことばを伝えるときも、作者を介して間接的に作品を褒めている。作者は作品が世に生まれてくるための媒介でしかなくて、私にとってはそれ以上の存在ではない、のかもしれない。交尾のあと食べられちゃうカマキリのオスとか。ちょっと違うか。
ジミ・ヘン猫

ギターを弾く!?猫

歯ギター。猫の。ここで、これもミュージックか?というふうに言うと、楽しい動画がいきなり踏絵のようになる。。