なんかときどき気にはなってたけど、なんとなく書かなかったことがあって、たとえば、8月15日の日記にkugyoさんがふたつ、shokou5さんがひとつ星をつけてくれているのだけれど、この星はこの日の日記のなにに対してなのだろう、ということで、といっても、無関係なものをぼこぼこくっつけていくような書き方をしている私が悪いのだけれど、たとえば、15日のでいえば、「EDEN」と「イベントについて」と「オルタさんの「絵について」について」の3つなのだけれど、あとはオルタさんとの対話もあって、この対話がいちばん面白い。ひょっとしたら人間は誰かと対話しているときがいちばん創造性が発揮されるのかもしれない。あと、批評ってなんだろう。なにが目的なんだろう。批評というからにはその対象があるはずで、まずは対象ありきで、なんらかの対象に関して言及する、ってことが基本なのだと思うけれど、その目的はなんなのだろう。批評にかこつけて自分の主張をするのか、批評によって対象の持つ問題意識をさらに深めるためなのか。その両方なのか。それとも別の目的があるのか。このまえ築港ARCに行ったときに朝田君ともはなしたのだけれど、絵を描いたり音楽したりいろいろしたりする人達って、少なくとも僕らの周りでは、他の、絵を描いたり音楽したりいろいろしたりする人達の作品なりなんなりに対して、公の場でなにか言うことってほとんどないよね、ってことで。個人的に感想を言ったりとかはあるんだろうけど、それもまあ当り障りのないことだったりして、自分のことを振り返ってみても。これは、朝田君に言われたことだけど、この日記はたまに朝田君も見ているらしく、誰かの展示とか誰かのライブとか、そういう誰かのしたことに対してなにかしら言及したりすることがたまにあるのだけれど、誰に頼まれたわけでもないのになんでそんな(面倒な)ことをするのか、ということで、これはほんとそうで、死ぬほど面倒くさい。自分が誰かの作品をみたり誰かのライブをみたりして、なにを感じたか、をトレースしてことばに置き換えていくのはものすごく面倒くさい。めちゃくちゃ忍耐がいる。で、いつもその忍耐切れというか集中力切れで終わる。たぶん、ことばを紡ぐのは、忍耐勝負だ。忍耐力がないとできない。あるひとつの観念を表すのに適した表現(単語や単語の組合せや文の運びなど)をじっくりひたすら考え続ける。これはものすごく面倒くさい。それこそ苦行に近い。でもことばを紡がなければ、自分の思考や思考の傾向になんらかの変化を起こすことはできない。人間が頭のなかでだけ考えることには限界がある。今週の水曜だったか、うちに帰ってくると、リビングのテーブルにハガキが置いてあって、まず目に入ったのが「スーパーあーざっす!あざっす!」という出だしの一節で、どうやら姉ちゃんが行った美容室の美容師さんが今の美容室をやめて別のところに移ります、という挨拶状のようで、プリントされた文章の下にさっきのような文章が手書きで書いてある。そしてこの美容師さんは私がこのまえ切ってもらった人で、こういうこと言いそうにないけども、言ってもおかしくなくて、少なくとも私はいいなあと思ったが、妹はそのハガキがちらっと目に入った瞬間にやばい!と思って裏返したとか言っていた。ああ、思い出した、その日はうどん屋が休みでケンタッキーを買って帰った日で、ケンタッキーを食べながら、「あーざっす!あざっす!」と言ってみて、発声感というか口に出してみた感じを味わっていたら、なんとなく英語のように聞こえなくもなくて、「Ah The Us. As Us.」(アー我々。我々として)とか「Other Us. As Us.」(他は我々。我々として)とか大声で言っていたら、妹に、声のでかか!(声がでかい!)と叱られる。いまなんか左足がむずがゆいというか変だなと思ったら蚊に刺されている。2ヶ所。左足の薬指の付け根と親指からくるぶし方向10cmのところ。ベープリキッドだかなんだかそういうのを点ける。ムヒ、じゃないメンタームのかゆみ止めを塗る。涼しくなってきたけどまだ蚊はいる。そして叱られてもなお「Other Us. As Us.」(他は我々。我々として)と言っていたら、妹が「The earth」(地球)とか言い出したので、どうかルールには沿ってくれとお願いする。「ジ アース」だと「あざっす!」関係ないし。私のはてなアンテナに「MUJI新商品ブログ」というのを登録していて、更新されるとすぐ分かるのだけれど、一昨日更新されたそれを見ていたら、「花器・フラスコ型」の紹介があって(http://www.muji.net/mt/naruhodo/newitem/archives/2008/08/post_080821.html)、ヒペリカムってお花を挿した佇まいがなかなかよいなあと思い、私の部屋にも、毎年陶器市で隣のテントに店を出している新田つぎさんのちっちゃい一輪挿しがあって、最終日に購入させてもらおうとしたら、恐れ多くもいただいてしまって、一輪挿しというよりオブジェのように飾っていたのだけれど、ここはひとつ花を飾ろうかと一念発起して、マーガリンがなくなっていたので買いに行くついでということにして、花屋に行く決心をする。阪急オアシスにあるかなあと思ったけれど、やはり仏花で、駅前の花屋さんはどこかに移転してしまってテナント募集中だし、どっかあったか・・・・と考えながら、ブックファーストブックファーストのあいだを歩いていたら、モスバーガーをちょっとくだっていたところにあったことを思い出して、行ってみるとなにやら常連らしき初老の男性と初老の女性が店を出るところで、店のなかには小型犬のリードを持った女性と50歳くらいの男性がいて、合計4人の50歳以上の男女がいたわけで、どうにもだれが店主でだれが客かがあまりよく分からず、といってもなんだか帰りそうな感じでもあったので、しばし外でホウズキなどを見る素振りなど見せつつ待機していたのだけれど、なかなか帰らないので意を決して店に入ってみると、やっぱり誰がお店の人か分からなくて、しょうがないので、小型犬と遊んでいると、おじさんAがやっぱり若い人がいいんやなあ、と言っていて、犬ははしゃぎまわっている。あれはなんて犬だろう。ものすごく短い毛でバネのある感じの身体。「小型犬」でググってみる。うーん、トイ・マンチェスター・テリアのような感じもするが、たぶん違う。分からん。しばらくするとおじさんAとおばさんAが帰っていったので、おじさんBと犬を連れたおばさんBがお店の人ということになる。たしかにおばさんBは黒いエプロンをしている。おじさんB(お店の主人)に、これぐらいの、と両手で13cmくらいの楕円をつくりながら、一輪挿しに挿すんですけど、と聞いてみると、うーんいまあるのでは、ユリとかヒマワリとか・・・・かねえ、と言っていて、私が見てもあまり小さい一輪挿しに挿すようなものはなさそうだけれど、ヒマワリにする。水を毎日かえたら長持ちするよ、暑いから水も腐りやすくて。少しだけ砂糖を入れるとなおよい、とのこと。帰り道の途中にあるねこじゃらしを見て、おっこれの方がいいかも!と思ったが、せっかくなのでヒマワリを挿している。新田つぎさんの一輪挿しは高さ13cmくらいで、青磁よりももうすこし青っぽいか。かたちはバーバパパみたいな感じ。いいかんじにモタッとしている。それにヒマワリを挿しているのだけれど、やっぱりバランスはおかしい。見ようによっては、太陽の塔のようでもある。ことばで説明するより、デジカメで撮るなりなんなりして、写真を載せれば早いのだけれど、それはしない。なんというか、状況を説明するのにすぐビジュアルに頼ってしまうのがつまらないからで、日記を書くのはそれに抗う修行でもある。だから、この日記には、写真とかそういうビジュアルの要素が一切ない。その一輪挿しの写真を撮ろうとすると、それを置いている周りの様子も写ってしまうことになるのだけれど、ことばの場合はそれがない。ことばによる観念とか概念とか状況とかそういうのは、それがことばにならない限り、ない。そしてことばになったもの以外も、ない。ここが面白い。テレビ朝日堂真理子さんが来春結婚ということをいまさら知ってすこし悲しい気持ち。というか去年の記事で来春だからもう式は終わっている。私の個人的な持論なのだけれど、20代半ばの女性は30代前半から半ばにかけての男性に惹かれるらしい。なんというか、たぶん、大人な人がいいのだ。20代半ばの男性なんてぜんぜんこれっぽっちも大人じゃないからなあ。ああ、そうだそうだ、『絵を描いたり音楽したりいろいろしたりする人達って、少なくとも僕らの周りでは、他の、絵を描いたり音楽したりいろいろしたりする人達の作品なりなんなりに対して、公の場でなにか言うことってほとんどないよね』っていうのは、たぶん、私たちは「批判」と「非難」の区別がついてないから二の足を踏んでしまうのだ。なんか前にこういうこと書いたなあと思って検索。→http://d.hatena.ne.jp/k11/20080420 私は幸福にもいままで批判はされても非難されたことはありません。もしかしたら非難されていたのかもしれないけれど、ぜんぶ批判だと考えます。もちろんわざと。そっちの方がいいじゃないですか。批判してもらえれば、それがまた考えるきっかけになるし。無視されるよりずっといい。他人の反応を引き出すだけでも非常に難しいのだから。というよりも、私たちは、「批判」と「非難」の区別うんぬんの前に、あまりにナイーブ過ぎるのかもしれない。自然界では生き残っていけないのかもしれない。うーん、というよりもひょっとしたら、作品なりなんなりなんでもいいけど、作者の時点で、完成したもの・完結したもの、を世に出す、そして受容者はそれを受け取る、みたいなスタンスがおかしいのかもしれない。作者から送り出されるものは「完全な」ものなのか?せいぜいが作者というひとりの人間のなかにおいて「完全な」「一貫性を持つ」ものであって、世に出たときにそのような狭い「完全性」など問題ではないのでは?私たちには、俺の作品は俺のものなんだから俺の作品の問題は俺だけの問題で部外者(俺以外の全て)は一切口出し無用だ!みたいな気持ちがどこかにあるし、他人の作品に関してもそうだ。隣の家の問題に首突っ込んじゃいけません!みたいな。これはなんなんだろう。なぜここまで「自己」と「作品」とが癒着してしまうのか。そこから他者への否定的理解(人それぞれ!)が生じるのではないのか。作品を発表する時点で、作品は成人しているわけで、そこから先は好きなように生きさせたらいいんじゃないのか。親が子供を過保護にするのは子供のためではなく親のためなのではないか。子供が会社で叱られたら怒鳴りこみに行くのがいい親なのか。というようなことを、CanDyさんの「カフェオレみたいな日記 黒いのと白いのと甘いのと」(http://d.hatena.ne.jp/CanDy/)経由でたどり着いた、高橋志臣さんのG&G, Inc. blog「筑波批評社への檄文――あるいは〈批評〉をめぐる私個人の立場の整理」(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080820/1219209179)を読んで思いました。とりあえずなんとなく、批評ってこんなんなのか、っていうのが分かったような気がするのでよかったです。