やることはたくさんあるけれども、よなさん倉庫への行き方やら調べているうちにいつのまにかグーグルのストリートビューにはまってしまい、ひとしきり知ってるところに行ってみる。うちもばっちり写ってて、いつの間に?と思うが、たぶん竹の伸び具合と、近所の新しくオープンしたビストロが写っているところから察するに、2月か3月くらいか。でもこれどうやって?と思っていたら不自然な影があったり、車のボンネットが写ったりしていて(頑張って消そうとはしてるけど)、ああ、車の上に360度カメラというかパラボラアンテナみたいなかたちの鏡ごしに撮影するあれか、と察する。場所によって季節が違う。当たり前だけど。昨日というかまだ今日だけど長いメールを書く。書いていて企画書みたいだと思うが企画書は書いたことない。でもこういうのが企画書なら、企画書って必要なもんなんだな、、としみじみ思う。というか文字(メール)だけじゃそりゃ伝わらんし共有も難しいよなあ。だから図とか表とかグラフとか絵とかパワーポイントとかがあるのか。こうすると、文字で伝えられる概念を頭のなかでイメージする手間が省けるし、そうなればはなしことばや文字のやりとりでの概念の修正が容易になる、というかそれに専念できる。納得した。それとこのメールを書いててもうひとつ収穫だったのは、いくら部分を積み上げても、部分同士を繋げないと、つまり部分と部分の「あいだ」を作らないと、全体はできない、のを実感したこと。あと、まとめるべき企画はもう一件ある。イラレを久しぶりに触る。ウィンドウズ98の搭載されたはるかむかしのバイオでイラレ9を動かしているので、うっかり他のソフトを立ち上げると固まる。新たにフォントを入れてないので、字体のバリエーションがとてつもなく貧弱。情報の整理とか要素の配置のバランスとか写真やビジュアルも大事だけど、その内容(情報)のイメージやイメージ付けの方向に適した字体かどうかっていうのはほんとに大事で、内容(情報)から感じるかすかなイメージを字体やら写真やらなんやらでうまいとこ膨らましていくのが、いわゆるグラフィックデザインなのかな、と思うけれど、つまりなんでもかんでも自分の趣味で色づけしていくってことじゃなくて、とはいっても、私にはそのための道具や能力が、つまりハード的にもソフト的にも(最新のパソコンと最新のソフト、ではなくて、道具とノウハウというか)、欠けているので、いかんともしがたくはある。なのでとりあえず、めちゃくちゃ狭い範囲のなかでやりくりするしかない。友野典男行動経済学−経済は「感情」で動いている」は先日読了。JR六甲道の改札前でたまにやってる古本市でついつい買ってしまった杉田敦「権力―思考のフロンティア」はⅠ「権力はどう語られてきたか」まで読んで休憩中。小山登美夫「現代アートビジネス」はあと20ページくらい。とても読みやすい。稲葉振一郎「経済学という教養 増補」は第4章「日本経済論の溢路」に取り掛かるところ。けっこう読みやすい。というか書き方にスピード感がある。かといってあんまり飛ばして読むとさっぱり理解しないまま読み進めてしまったりする。。いつろのいつの難しい方が出てこない。。バーバラ・M・スタフォード「ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識」はあと16ページくらい。けっこう読みにくいけど読んだら面白い。思考のピントが合わないと意味不明だったりもするけど。でも悪文ってわけではない。クセがあるだけ。翻訳者のクセも加わってるっぽいし、もともとクセのある文章なのかもしれない。なにかコトを起こすときに、そのコトを社会のどこに置くか、っていうのは重要で、やはり「体(てい)」が大事らしく、体のはなしはよなさんともよくするが、どういうふうに「体」を設定するか、っていうのは、社会に受け入れられるかどうか、どういうふうに社会に受け入れられるか、に直結する。そして「体」にはながいあいだ培われてきた「型」があって、基本的にはみんなその「型」に従ってさまざまな判断をしているので、良くも悪くもその「型」は必ず意識しないといけない。たとえば、都会の雑居ビルの5階の1部屋で八百屋をしても高い確率で八百屋としては成立しないだろう。それがプラスになるような「体」というかイメージを作らない限りは。ただ「やる」だけじゃたぶんだめなんだよなあ、ということには気付いたのだけれど、ではどうするかがまだ分からないので、勉強したい。いまさら。