いよいよ北京オリンピックが始まりましたね、というキーワードでググってみると、いま現在(2008年8月8日21時14分)で約29,900件出てきて、そのうちここもそのなかに含まれるだろう。そして、いよいよ北京オリンピックが始まりました、というキーワードでググってみると、いま現在で約7,200件出てくる。「ね」があるかないかがけっこう大きいようで、いよいよ北京オリンピックが始まりました ね、というふうに「た」と「ね」のあいだに空白を入れてググってみると、いま現在で約6,360件出てくる。このパターンがヒットするページ数がいちばん多いかと思いきやいちばん少ないのはなぜだろう。ところで、□□□のアルバムが出るらしく、□□□「TONIGHT」9月24日発売。同じ日にAOKI takamasa「Private Party」も発売。という情報を確認するためにcommonsのサイトに行ってみたところ、情報が重ね合わされているこのインターフェイスはなかなか面白いなあといつも思うけれど、「カーボンオフセットCD」というものの紹介がしてあって、なんぞや、と思って、紹介映像を見てみたら面白かった。→http://www.commmons.com/080314.html 昨日寝る前に、というか寝ながら、久しぶりにfullswing「edits」を聴いてみた。それにしてもフルスイングって。野球か。「フルスイング」というタイトルの高橋克実さん主演のドラマがNHKでやっていた。→http://www.nhk.or.jp/dodra/fullswing/ 音楽が創造され、CDに定着・流通・小売店を経て、消費者に辿り着くまでに排出されるCO2を、森林保護にお金をかけることで(要は、森林から、保護する見返りにCO2排出権を買う、ってこと?)、相殺する、ということらしい。wikipediaにも「カーボンオフセット」の項が。→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%95%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88 たとえば、いま、「エコ」がどうとかいうとき、ガッと食いつく人と過剰な拒否反応を起こす人がいるだろうことは想像できるけれど、もちろんなんとなく気になる人となんとなく敬遠する人もいるだろうけど、そういう快/不快、好き/嫌いなどの、「信条」(イデオロギー?)がどうとかいう次元のはなしなんてどうでもよくて、それ以前のところで、なんらかの生産が必ず再生産であることを考えれば、なにかを生産するために必ずなにかを消費しなければならないことを考えれば、避けて通れないことのような。楽器からなにからなにまで自分でつくり、つまり材料となる自然物を自分で育て、食べるもの着るものなにからなにまで自分でつくり、つまり材料となる自然物を自分で育て、という音楽家が仮にいるとして、そういう人なら避けて通れるのか、というとそうではなくて、そもそも自然物を得られる、という条件(地球というか自然というか環境というか)自体はその人に由来するものではない。Art Blakey & The Jazz Messengers「A Day With Art Blakey 1961」という2枚組CDの2枚目に入っているウェイン・ショーター作曲の「Nelly Bly」のイントロが異様にかっこいい。サンプリングしてセオ・パリッシュみたいな音楽がつくれるかもしれない。ジャズのCDに入っている解説はたいてい面白い。なぜだろう。たぶん解説がそれ自体ひとつの時代を描く「物語」になっているからで、いろんなジャズメンたちの人生を知るのはそれだけで楽しい。という構造はビックリマンに近いのか。いやチョコはチョコでものすごく美味しいから捨てるに捨てられないビックリマンチョコレートか。「物語」と「音楽」、一粒で二度美味しいみたいなことか。「物語」を拒否する音楽は広い意味での「思想」になるのだろうか。さっきの「避けて通れない」のはなしに戻ると、そういう条件のもと、それでもやるのか?ということで、ちょっとはなしを限定すると、すべてが複合的な再生産であるならば、芸術はいったいなんなのか、ということで、なにかを生産するためにはそのための道具や材料が必要で、それを買うにしろ盗むにしろ拾うにしろ事情は変わらず(対価を支払うかどうかとは無関係に)、道具や材料を生産するための資源やエネルギーありきだということで、つまり道具や材料を生産するための資源やエネルギーを再消費しない限り、私たちはなにも生産できない。それで、芸術の場合、創造行為にかかわるコスト、つまり道具や材料などがつくられるまでの資源やエネルギーを使って、+αのなにかを付け加え、作品というかたちに定着された後、どうなるのかなー、というのが気になる。たぶん「芸術作品」ともなると、モノとしての作品をさらに再生産して新たなものに、なんてことは少ないだろうことは想像できる。そしたら、それじたいに含まれる資源やエネルギー量と芸術行為による+αはそのままに、相対的な価値・社会的な価値としての、評判や名声や値段やなんやかやがいろいろに変動していくのだろうか。昨日はうっかりサッカー日本代表の試合を見損ねて、というか、知り損ねてしまったので、悲しい気持ち。またさっきのはなしに戻ると、ブログを書くでも音楽をつくるでもなんでもいいけど、それにはそれなりの消費(電気とかCO2とか?)が伴っているわけで、それにも関わらず、実用的でないものをつくり続けることにどう言い訳するかということで、芸術なんて大金持ちや小金持ちや貧乏人のする道楽だ、と言われるのにも理由があるし、いま現在(2008年8月8日21時35分)、いよいよ北京オリンピックが始まりましたね、というキーワードでググってみてヒットするページ数は約30,200件に増えている。
Tahiti80「Revolution 80」

ツインドラムじゃなくて、ワンドラムにふたりがかり。最初演奏中にドラムの調整かなにかしている人かと思った。ちなみにこの人は普段ベースで、普段ボーカル+ギターもしくは鍵盤をやっている人がボーカル+ベースをやっている。この二人目のドラマーは途中からペッとスティックを投げ捨ててなにかの電子機器の操作にうつる。どう言い訳しよう。やりたいことをやっているんだ!でもいいし、みんなに言いたいことがある!でもいいだろう。でも、みんな、誰かのやりたいことや誰かの言いたいことになんて興味なさそうだ。それにも関わらず、資源やエネルギーは使われていくわけで、これにどう言い訳するか。言い訳というより、自分の行為を自分や社会のなかにどう位置付けていくのだろう、と。毎日放送の「ちちんぷいぷい」という番組で金曜日にやっているコーナー「千鳥の集合写真撮ろッ !」を先週はじめて見て面白いなあと思ったのだけれど、今日そのコーナーに出てきたなに島やったか忘れたが人口3000人くらいの島で診療所の先生をやっているおじさんが、「人の幸せいうたら、どれだけ必要とされる事か」と言っていて、まさにそうで、この先生は島のみんなに必要とされていた。そして、だからこそ先生も島のみんなを必要としている。ラカンがいう「人は他者の欲望を欲望する」というのは至極当たり前なこのことを指していて、他者の欲望を欲望しつつも得られない場合、モチベーションをどう保っていくのだろう。私を欲望しない他者は間違っている!か、他者に欲望されない私は間違っている!か、他者に欲望されなくたっていい!か、そのどれでもないのか。あわよくば欲望されたい!なのか。だんだんズレつつある。たぶん、なにをやるにしろなにかしら消費しなければならないなかで、なにをやるか、ではなく、そのなにかをなんのためにやるか、が気になる、ということかと。私の場合、なんのためかのためならなにをやるかなんていくらでも変更可能なので、そっちからアプローチする方がいいのかもしれない。Perfumeが「love the world」という曲をテレビで歌っているとおぼしき映像を見てみたところ、早送りみたいな動きにびっくりする。「ちょっぴり運命みたいな キャラにもないようなことも 感じちゃっていいじゃないの」の「じゃないの」のところの振り付けが面白い。デッデッと二段階でいってデッデッと二段階でかえってくる手の動きが。

あと、あなたはなにをやっている人ですか?と聞かれたらものすごく困るのと同様に、あなたはなにをしたいのですか?と聞かれるのもものすごく困ってしまう。突き詰めると、ひとりの人間のやりたいことなんて、理想の自己イメージの再生産・同一化か、他者の欲望(承認)を欲望するか、しかないんじゃないか、とか思ってしまっているので、どうにも困るのだけれど、そう思い込んでいる自分をうまく出し抜くのはなかなか大変で、でもうまく出し抜けるとなにか思いついたりもする。具体的に、なりたい自分もやりたいこともないとなかなか生きにくいというか、やりづらいという方が近いかもしれないけれど、さいきん思うのは、そうはいっても、自分の身体は日々新陳代謝を続けて変化し続けているわけで、そのような意味での身体がなんらかの担保というか基盤となるのかもしれない、ということで、というよりも、自分に27歳男性(無職)以上の特性というか属性を付け加えないのが悪いのだと思う。なんらかの属性があってこその、やりたいこと、なりたい自分なのだから。そしてその属性はおそらく、偶然に、向こうからやってくる、というふうに思うことで、自分のものではない属性も自分のものであると思い込めるようになっている。もしくは、なんらかの環境ありきで、その環境の属性を少しづつ身に付けていくようになっている。大工の家に生まれたら大工になるかもしれないし、反発して違うなにかになるかもしれない。どっちにしろ「大工」という軸ありきだ。もしかしたら、本質的に人間とは、指示待ち人間なのかもしれない。外側から何らかの指示が与えられないとなにもできない。それに従うにしろ反発するにしろ。環境という指示が与えられないとなにもできない。真空状態というか完全な抽象空間では何の思考も生まれない。もし思考が生まれるなら、そこには必ず環境の特性というか属性というか指向性のようなものが存在する。その指向性それ自体を知りたい。知ってどうするのだろう。どうしようもないけど。いつも、おそらくは書かなくていいことばかり書いているのだけれど、書くことでいったん外に出して眺めてみる、というメリットがあるともいえる。そのメリットだけならば、プライベートモードにしてもいいのだけれど、それをしないのは、やはり誰かに何かを言いたい、みたいな欲望があるからだろうし、はてなダイアリーをプライベートモードで使っている人ってどれくらいいるのだろう。
Perfumeをオッサンが踊ってみた「love the world

「ちょっぴり運命みたいな キャラにもないようなことも 感じちゃっていいじゃないの」の「じゃないの」のところの二段階はちゃんと二段階だけれど、なんというか滑らかさというか艶がないのが面白い。すごいけど。いまSuzukiskiOzma」を聴いていて、うっかりSuzukiskiさんのサイトを発見してしまい、掲示板と日記を読んで、これはすごい!と思う。身の危険さえ感じる。