なんというか、いま、いままでになく、なにやらやることがあって、よろこばしいことで、とりあえず、締め切りというか、そういうの順にメモ。●安治川倉庫FLOATにて開催される大和川レコード企画「レシート展(仮?)」8/31(日)〜9/7(日)[18:00〜22:00]へのぐっさんとの連名での出品●8月31日の安治川倉庫FLOATオープニングパーティ(仮?)でなにやるか?●9月2週目の催しもの関連●9月から11月にかけての例の件関連、と書くとそんなやることないようにみえるしそうかもしれない。けれども、ルーティンワークではないので、すべてがある程度の基礎のようなところから立ち上げないといけなくて、最後のに至ってはまったくの未経験なので、どうしようか右往左往中。締め切り順にいくと、9月2週目の催しものの方が先か。第一部まで読んで放置していた、木村敏「時間と自己」を読了。友野典男行動経済学−経済は「感情」で動いている」はあと40ページくらい。小山登美夫「現代アートビジネス」は読み始め。同じく稲葉振一郎「経済学という教養 増補」も第一章だけ読んで、友野典男行動経済学−経済は「感情」で動いている」の読了待ち。あんまり並行して読んでも面倒臭くなるし。山中隆次・鶴田満彦・吉原泰助・二瓶剛男「マルクス資本論入門」とカール・マルクス資本論 1」(新日本出版社)は停滞中。とりあえず「資本論 1」の第一章までは読みたい。「資本論」は読むのがしんどいけど読めば面白い、という小島信夫さんの小説のような。そして、行動経済学には興味があるし面白いけど、これさえあれば全ての問題が解決するかのような捉え方には違和感がある。行動経済学について、ダマされなくなるし、ダマせるようになる!とかそういうイメージが一人歩きしているようだ、どうやら。友野典男さんの本を読む限りでだけれど、たしかにあまりに明快すぎるというか、はっきりしすぎる。はっきりさせる、ということは、はっきりしないところを切り捨てることでもある。精神分析とかアフォーダンスとかクオリアとかもそうだけど、分かりやすく断言してくれるものに私たちはものすごい食いつきをみせる。別に分かりやすく断言しているわけでもないのに、そのように受け取る、私たちは。「断言」(しているようにみえる)っていうのがポイントなのか。わかりたい病なのか、わかった気になりたい病なのか。今日は、きょうだい3人の時間が合いそうなので、晩飯を食べに行くことになり、私たちに「はーい(の店)」の愛称で親しまれている(30代らしきお兄さんとそのお母さんらしき人でやっているお店で、なにか注文すると、やる気があるようなないような「はーい」という声で返事をしてくれるため)いつものお店に行くも人がいっぱいで、仕方なく駅のなかにあるリュリュというスパゲティ屋さんに行く。ここはわりあいパンも前菜もぼちぼちしっかりしている。パスタに+600円でディナーセットというものがついて、内容はパンと前菜とドリンク。姉ちゃんはウーロン茶で妹はジンジャーエール。私はグレープフルーツジュ―スを頼んで、店員のお姉さんが注文を復唱しはじめる直前に、妹がメロンソーダもある、とつぶやいたのを聞いて、復唱が終わるのを待って、グレープフルーツジュ―スからメロンソーダに注文を変更。+いくらかでクリームソーダにもできたよ、と姉ちゃんがいうと、妹が「クリームソーダぞ」(クリームソーダだぞ)、「クリムゾン?」、「グレムリン?」、「キングクリムゾン?」、「クリムゾンリバー?」、などと言いつつ、「クリムゾン」三部作を構想する。第1弾は「キングクリムゾン」で、クリムゾンのなかのクリムゾン、つまりキングクリムゾンの誕生を描く。続く第2弾「クリムゾンパニック」で、キングクリムゾンに怯えパニックになる人々を描く。そして最後の第3弾「ラストクリムゾン」で、文字通りクリムゾンの最期を描く。リュリュを出て、阪急オアシスに寄って牛乳とかお菓子とか冷凍食品が半額なのでたこ焼きいらん?と言ったらいらんと言われたりしたあと、私だけ別行動で駅から出て北に向かったところにあるファミマへ。缶のボトルに入った日本酒のシリーズがあるのをこのまえ別のファミマで見たので、ちょっと見物に。「大吟醸」というのを買ってみる。遠藤浩輝「EDEN―It’s an Endless World」が あったので読んでみたらなかなか面白く、ツタヤで15、16、17巻を借りてみたがまた完結してなくて、どうやら18巻で完結しているらしい。うーむ、18巻だけ買うか。だいぶ前にツタヤで借りてみた「イノセンス」は人形の動きが怖かったです。15、16、17巻を借りるついでに、パトレイバー2(劇場版?)を借りようかとも思ったけれど、パッケージを見ていたら内容を思い出した。そうだそうだ、大学のときに見たな。パトレイバーはコミックも買ったもんな。売ったけど。3は見ていないので借りたかったけど借りられていた。なのでアップルシードを見るかとも思ったけどやめた。なんとなく。ここ最近、なにが恐ろしいかというと、その恐ろしさをいまの私にうまく見定められるか自信がないけれど、なにかをつくったり、表現したり、発表したり、発言したり、する・している・したい人がものすごくたくさんいるしこれからも増え続けるだろう!ということで、そういうあらゆるすべての「表現」をどういうふうに自分に取り入れていったらいいのだろう、、インターネットは私の知りえない情報が存在すること(情報の内容でなく)を日々伝えてくるし、、と途方に暮れる感じ、というとあながち当たらずとも遠からず、というところだと思う。「あらゆるすべて」を見ようとするからダメなんでしょ、いくつか範囲をおおまかに選べばいいじゃん、というのは分かっているけども、なかなか難しい。自分の目や耳や鼻や口や手や足の届かないところについてまでも思考することが可能なのは、良いことなのか悪いことなのか。しかしいまの時代、入ってくる情報にフィルターをかけるといっても、それは自分の好きな色眼鏡(思い込み・誤謬)を選べる、というだけなのではないか。とはいえ、このようなあるひとつの誤謬(というか視点というか、思考や知覚の核というか、)なしには人は生きられない、ゆえに誤謬は真理である、というのはニーチェがいったことだったかしら。「自分のために」情報にフィルターをかける、のはどうかと思うが、では別の方法があるのかというと、どうなんだろう。いまふと思ったが、私は、人間がなにかを表現すること、そのものを見たいのであって、そのために、「表現」一般の一例としての個別の作品を見ているのではないか。人間の、なにをつくりたいのか、よりも、なぜつくってしまうのか、つくらないといけないのか、により興味がある。だから、人間がなにかを表現することそのもの「でも」ある、個別の作品や個別の表現や個別の人間を尊重しなければいけないと思うのかしら。 いとうせいこうノーライフキング」が河出文庫で出ている。大学の時に梅田の地下道の御堂筋線阪神線の改札が交差するあたりにある古本屋で単行本を発見して読んだけれど、たしか部屋の荷物を整理する時に売ってしまった。文庫版の方が表紙がかわいい。