日記が書かれないということは、たんに出払っているだけだと思ってもらえれば、当たらずとも遠からずです。末永史尚さんの「につき(はてな)」(http://d.hatena.ne.jp/kachifu/)8月4日より

最近自分は人が話す言葉をあんまり信じていないのかな、と思う。性質として。
作っているものや成していることの方が信じられるというか。だからそれが見えていない人と話すとき、うまく会話できない。

なんというか、非常によく分かるなーと思って、たぶん末永さんは「つくる」こと・「成す」ことに深く入り込んでいるんだなと。そして人間はたぶん、自分が自分を見ているようにしか、自分は他人を見れないからで、この「うまく会話できない」感は私も感じたことがあるし、たぶんなにかを表現したり、つくったりする人には固有のことだと思うし、人間は、自分の身体も含めてあらゆる「自分でないもの」に、自分を託して、自分を含む自分以外の誰かに見えるようにしているわけで、そう考えると、この感覚は人間なら誰しも感じたことがあるはずじゃあないのかと思ったりもする。でも最近は、そのへんがわりかしどうでもよくなってきていて、つまり、目の前の人がなにを作っている(きた)か・成してきたか、がどうでもよくなってきていて、というとすこし正確ではなくて、目の前の、「人間」という現象としての、誰かと、その誰かが作っている(きた)ものや成したこと、を別物だと考えていて、私がこう考えるのには理由があって、それがなにかというと、その誰かが作っている(きた)ものや成したことに対する自分の感情によって、目の前の「人間」という現象としての誰かに対する感情が影響されるのを避けられるからで、なんか言い方がややこしいが、つまり、誰かの作品(はなしを簡単にするためにこう言う。意味合いとしては「芸術」作品に限らず、人間がなにかを「表現」すること一般のこと)が嫌いだからといって、その人を嫌いにならなくて済む、ということで、これがかなり難しい。もちろん私自身のはなしです。なんというか、たとえば、これはどうなんだ、、という作品(「表現」一般)に出会ったとして、その「どうなんだ、、」感を作者にまで拡張してしまいがちで、作品(「表現」一般)に対する印象を作者(人間)にまでひきずってしまうのはなぜだろう。人が人に対するときって、好き嫌い(快/不快)じゃないというか、その「あいだ」をどうつくっていくか、しかないと考えるのだけれど、やっぱり人間は、他人に対するとき、すでに固まっていて変化しないものとして相手をみてしまう。価値を測ったり、好きか嫌いか判断したり、つまり「量」や「質」を測定しようとするときには、どうしても対象を変化しないものと仮定しないとだめで、これはたぶん物理学やなんやかやでいう、観測問題に当たるような。今日は好きかもしれないが、明日は嫌いかもしれない、明後日も嫌いかもしれない、じゃあ嫌いなのかというと、そうともいえないわけで、変化するものに付き合うためには自分もまた変化していかなければならない、というか、対象に対する自分の解釈や感情や判断もまた対象の変化に即して変化していくことに、馴れないといけないような。観測するときには、動かない一瞬を取り出すしかない、というとりあえずの解決策が、そのまま真理のようになっているのが気持ち悪いというか、動かない一瞬を取り出すしかないからといって一瞬は動かないわけではないことを忘れて、「一瞬は動かない」と考える辻褄合わせに労力を使うのはバカバカしいというか。あと、人間と作品(「表現」一般)とを分けて考えられれば、作品(「表現」一般)を人間が人間を見るように見れるかもしれない、というのもある。そもそも、ある人間の存在自体を否定するのは悪だとされるのに、ある作品(「表現」一般)の存在自体を否定するのはかならずしも悪ではない、のはなぜか。人間には人権なるものがあるが、作品(「表現」一般)にそういうものはないのか。人間の尊厳と作品(「表現」一般)の尊厳は別の次元にあるのではないか。というふうな気持ちが、人間(作者)と作品(「表現」一般)を分けたらどうだろう、という考えには入っていて、もうひとつは、それらを分けることで作品(「表現」一般)を「承認ゲーム」から逃がせるかもしれない、というのもある。私がなにかをつくる→それが誰かに褒められたり受け入れられたりする(いわゆる承認)→自分のつくったなにかと同じく私も承認されたことになる、その繰り返し。これをやっているとそのうち作品(「表現」一般)の内容に関わらず、相互承認だけが一人歩きしてしまって、なにがなにやらよく分からなくなる。といっても「承認」はおそらく(現代の?)人間の欲望のひとつなので、まるきりなくなるなんてことはないし、「表現」一般には他者が不可欠でその意味で「承認ゲーム」でもあるので、相互に承認し合うことを否定するつもりはないし、それがなくなったら困るし、じゃあなんなのかというと、たんにひとつの帯域でだけフィードバックするのは危険というか、「表現」一般そのものを「承認ゲーム」と捉えるのはいいけれども、なんらかの理由により自分のとっての「表現」一般が「承認ゲーム」として機能しなくなった場合に、「承認ゲーム」が終わると同時に「表現」一般もまた終わってしまう。それはそれでいいのかもしれないけれど。生きるということそのものが、ものすごく広い意味でのなにかを表し続けること、だとする立場から見れば、生きながら終わることには違和感があるし、人間の表し続けたいという欲望は、抑制・抑圧されるべきではない、と思う。いま「観測問題」でググってみたら発見した、松原隆彦さんの「量子力学観測問題について」(http://www.a.phys.nagoya-u.ac.jp/~taka/think/kansoku.html)という文章より(引用したらダメな文章かも。。)

コペンハーゲン解釈には重大な問題がある。すなわち、この世の意識というものは自分一人だけが持っているものではないということである。あらゆる人間あるいは動物にも意識があるのである。すると、ある人にとって波束が収束していても、他の人にはまだ収束していない、という事態をどう受け止めるかが問題である。(これは、ウィグナーの友人という有名なパラドックスに代表される) コペンハーゲン解釈にとって見ればこれは重大な問題である。私の意識が作用して定まった世界と、あなたの意識が作用して定まった世界とどちらが本当の世界なのであろうか? これに答えを出すことはできない。強引に出そうとすれば、あなたか私のどちらかが基本的な意識であり、他方は世界を定めることのできない意識なのである、ということになるだろう。だが、多世界解釈においてはこれは問題ではない。すなわち、私にとってみればあなたも自然現象なのであって、あなたは量子力学的な重ね合わせの状態にありうるのである。逆にあなたにとってみれば私は自然現象なのであって、私のほうが量子力学的な重ね合わせの状態にありうるのである。そして、私の認識している世界は全体のごくごく一部の世界であって、また、あなたの認識している世界も私とほぼ共通してはいるがまた違った一部の世界なのである。これは、世界の存在自身が各観測者によって相対的な意味しかないことを示している。この世の中におこる現象は現象そのものとして完全に人間によって観測することができるものではなく、人間の意識とその現象との相互作用でしかない。したがって、人間の意識が自然現象を完全にとらえきれるものではないという考え方は自然であろう。

量子力学の「重ね合わせ」と、アリストテレスの「可能態」は、同じ事態を指しているのだろうか。それにしても、アリストテレスが、「デュナミス」(可能態)に対する概念として、「エネルゲイア」と「エンテレケイア」のふたつを用意した理由がまだ理解できない。。ふたつの違いがまだよく分からん。むむ、kugyoさんの「kugyoを埋葬する」(http://d.hatena.ne.jp/kugyo/)にある、実用論的汎反意図主義についての文章が面白いなあ。

「実用論的汎反意図主義」

(a)意図の帰属はつねに虚構であり,かつ,(b)恣意的(べつに虚構の語り手に帰属させてもいい);(c)ただ,実際には「プラグマティックな原因」により(特定の)人間に帰属させていることが多い.

(d)したがって、「プラグマティックな原因」が特に見当たらない場合、どんな表象でも自由に解釈してよい。

(e)ところで、作者の意図を考慮せずに表象を解釈した場合、そしてそのときのみ、私たちはその表象を芸術作品として受容していることになる。(考慮した場合、コミュニケーションの一部として受容していることになる。)

ほんと、音楽でも絵画でもなんでもいいのだけれど、「自由に」感じてもらっていいですよ、「自由に」解釈してもらっていいですよ、と簡単にいう作者がいるのだけれど、そもそも「そういうふうに」つくってないものを「自由に」見ることなんてできないわけで、作品に対する作者の解釈・感じ方・見方が、当の作品自体に含まれている作品を、そのままで「自由に」解釈するなんて不可能だし、「自由に」解釈してもらっていいですよ、と言いつつ自分は「不自由に」解釈しているようにしか見えなかったりもするし、といっても「自由」がなにか分からないわけだけれど。このあたりの問題で思い出すのが木下和重さんで、自分の作品の受容について、明確に目的を示し、なおかつその過程も厳密に指定する、ということを個人の作品では志向していて、それが誰にでもうまく機能するかどうかは私には分からないけれど、少なくとも私には機能している。木下さんの作品には「木下和重」を学習するようなところがあって、受容者は、まず「木下和重」をマスターしてから自分のことにとりかかる。なんかそういう「基礎」を木下さんは提供しようとしているようにみえる。なのでやはり中途半端はよくなくて、作品によって何かを伝達するのであれば、それなりの方法があるしそうするべきで、伝達を志向しながらも「自由に」というのはおかしい。だから「自由に」みてほしいのであれば、上記のkugyoさんの主張のように、「プラグマティックな原因」を除去する必要がある。というふうには全然その当時は考えていなかったけれど、結果的にはそういうことを考えていたらしい「ご自由にお持ちください(便宜的にそう呼ぶ)」→http://d.hatena.ne.jp/k11/20070706 といっても、ここには意図の参照先としての作者はいないけれども、それがなにかしらのモノである限り実制作者としての作者はいるわけで、よって、意図の参照先としての作者を仮定して解釈をすることも可能であるけれど、それは無意味だ。そもそもこの条件においては、それは仮想的なものでしかないし、答えがあることは知っているが、答えを知ることができない、答え合わせでしかない。というか、答え合わせをするためには答えが必要で、答えがあるということをでっちあげた、だけだ。なぜ人は答え合わせがしたいのだろうか。意図の参照先を自分に向けかえるのがいちばん楽しいと思うのだけれど。「なぜ、私は、そう解釈したい・思いたい・感じたい、のだろうか?」