日付は変わったけどまだ2日の気分。とりあえず、あれなんだっけ、カタログじゃなくて、ああ、カレンダーだ、今日はなんかこういうのが3件くらいあって、とりあえずカレンダーをひっくりかえそう。カレンダーは葛西薫さんデザインのを一昨年くらいから愛用している。去年は罫線なしで今年は罫線あり。アメリカンドッグを指差しながらフランクフルトください、と言ったり、あれなんやったかなまた忘れた、ああ、値引きじゃない、値切るだ。なにかおかしい気がする。昨日は三宮にてみつ君とさんちか古書即売会に行って、その後、JR三宮を少し北に行ったところにあるというインドカレー屋に行くと、楽天出荷で多忙のためしばらくお休みします、と書いてあり、意味がよく分からない。そういえば、レトルトカレーとかも作ってたような。というくらいで。なのでオノコロカリーに行く。さんちか古書即売会では、ジャン・ボードリヤール:アンリ・ボンヌマズー:ジルベール・ラスコー:ミッシェル・ドゥ セルトー:マルク ル・ボ「TRAVERSES/2 デザイン」と、ウンベルト・エーコ:ジョナサン・カラー:リチャード・ローティ:クリスティーン・ブルック ローズ:ステファン・コリーニ「エーコの読みと深読み」をふたつで三千いくら。みつ君とはいろいろな考えを交換する。昨日はあさの8時半くらいにおじさんから電話があり、ばあちゃんちに(すなわちおじさんち)坊さんがやってきてお経を唱えるらしく、ばあちゃんひとりではお迎えできないので、立ち会ってくれ、とのことで、10時くらいにばあちゃんちに着く。坊さんは10時から11時のあいだに来るとのことだったが、12時過ぎに来た。臨済宗だった。何派やったかは忘れた。で、16時半くらいに出て三宮へ向かいJR三宮でばあちゃんちの鍵を姉ちゃんに渡す。なぜならば、今日の夜おじさんが仕事で帰れないらしく、ばあちゃんちに泊まってくれないかとの電話があったので、姉ちゃんと私が泊まることになっていて、まず先に姉ちゃんが行く。なので先に鍵を渡す。22時過ぎにみつ君と別れていったん家に戻りシャワーを浴びてばあちゃんちへ。駅からのバスがもうないのでタクシーで。ばあちゃんちに着くと姉ちゃんに電話してオートロックを開けてもらう。マンション入り口までやってきて自動ドアを内側から開けていたが、よく考えれば部屋についているインターホンの開錠ボタンを押せば、マンション入り口の自動ドアは開いたのかもしれない。で、1時ごろ就寝。5時ごろからばあちゃんが動きだしている気配。7時くらいからなにやら話し掛けられ始め7時半には仕方なく起床。パンを食べつつぼやっとする。姉ちゃんはまだ寝ている。いつもばあちゃんは仏壇のある和室に誰かいると言っていて、どうやら和室の仏壇横にわさわさと置いてあるでかい造花とか押し絵の入った額縁とかそういうもろもろが人に見えているようで、勝手に入り込んで寝泊りしている、というようなことを今までは言っていたのだけれど、今日に限ってなぜか、この家はその人たちのものだから出て行かないといけない、というようなことを言い出して、姉ちゃんが、この家はおじさんが買ったやつだからばあちゃんとおじさんのお家だよ、と言うと、いったんは、そうかいな、と納得したようにみえて、次の瞬間には、仏壇の和室の隅に住み込んでいる人々が「買った」お家、ということになっていて、出て行かないといけない、という結論は一切揺るがない。いまのところ、口ではそう言いつつも実際に出て行こうとしないので相槌を打ってはなしを聞いていればなんとかなるが、家を出て動き回るとなるとかなりややこしいことになる。家の玄関の鍵を内側から開けるのはできるので、出て行く意志さえ生まれたら出て行ってしまうだろう。たぶんマンションの外にまでは出られないと思うけど。で、ヘルパーさんがご飯を作りに来てくれる11時前に家を出ようとしたら、ちょっと早めに来たヘルパーさんと鉢合わせになり、あら、今日わたしお休みだった?お休みだった?とやたらに言うので、いやこれからもう出ないといけないので、、お願いします、と言ってばあちゃんちを後にする。というのも、寝不足気味の私たちきょうだいにはばあちゃんにお昼ご飯を作ってあげる気力がなくて、ヘルパーさんにお願いしたかったからで、といってもなぜかこのヘルパーさんは、家族がいるのなら家族でやってくれと言わんばかりに、誰かいると家まで来ているのにすぐ帰ろうとする、なぜか。給料の体系はどうなっているのだろう。歩合給ならば多く数をこなした(多くのお年寄りのお世話をする)方がいいだろうし、固定給ならば、できるだけ少ない方がいい。いや、別にいいんだけど。ヘルパーさんにとっては他人のうちのばあちゃんだろうし。で、家にいったん戻り、日記をアップして、よなさんちへ。デジカメの電池を充電したつもりが、充電電池の効力というのかなんなのか、電池として機能しなくなっていた。駅から倉庫に行くまでと倉庫内の写真を撮る。だらだらといつものごとくはなしをして、夕飯を食べるべく九条の商店街に行くと偶然にも今日はお祭りの日で、なにやらパレードのようなものがやっている。いくつかの団体に分かれて、踊りを踊りながら商店街を練り歩く。四角いカスタネットみたいなのを持ってカチカチ鳴らしながら踊るのが多い。カチカチいわせながらおばちゃんたちが10人くらいで踊っている団体が通り過ぎるのを見ていたら、ひとりだけそのカチカチを持っていないおばちゃんがいたのを発見したのは、その商店街に繋がる親ちゃんロードやったかそういう路地でやっているちびっこ向け縁日に行ったあとで、ほんとにちびっこばかりのなか、道端のイスとテーブルで枝豆をつまみにビールを飲む30代くらいの女性三人組をみた。お好み焼き200円をそれぞれ食べる。よなさんは150円のビール。これと同じビールが親ちゃんロードにあるスーパーで148円で売っていた。私はこのスーパーで買った野菜のカクテルだかそういうの。ドリカムがコマーシャルに出ていた。よなさんはコロッケも食べる。私はアメリカンドッグを指差しフランクフルトくださいと注文する。お祭りを堪能し、まだお腹が空いていた私たちはニンニクラーメンと100時間カレー、って看板に書いてあるラーメン屋にてラーメンを食う。左腕になんかイスラムっぽい文字っぽいなんかの刺青の入ったジェロム・レ・バンナ風の親父と嫁と娘たちとバンナの弟とその嫁と娘と息子、という団体もご来店。親ちゃんロードでのちびっこ縁日にも来ていたみなさん。見かけたのを憶えている。食べたあとふたりとも少し気持ち悪くなる。食べ過ぎと、ちょっと小腹が空いたには濃ゆすぎた。帰って、ブログという形式についてとか、あとなんだったか、広告代を情報代として消費者に払ってもらう、だったか、そういうはなしとかもっといろいろなはなし。ラーメン屋から帰る途中に前の会社の人と遭遇した。そして、そもそも、情熱大陸ナガオカケンメイさんの回を見てものを言うこと自体が、ネット上の情報だけでものを言うのとまったく同じで、情熱大陸という番組はテレビ局の視点による編集が行われているわけだし、実際に情熱大陸のナガオカさんと常盤通信社さんとのやりとりは、常盤通信社さんの意向をナガオカさんが拒否し、お互いに折り合わないなかナガオカさんが妥協した、かのように描かれているし、この場面を見たときに感じたのは、なぜこのやりとりを放送する必要があるのか、ということで、おそらく意図としては、「戦うデザイナー ナガオカケンメイ」を強調したかったからだと思うが、このような編集をするとやはりどうしても、ナガオカさんが正しく、常盤通信社さんが間違っている、かのような錯覚を与えかねない。ナガオカさんが主人公でなおかつ、戦う=攻める、であって、攻める側は攻められる側より正しいように見える、という錯覚。拒否する側は拒否される側より正しく見える、という錯覚。私がナガオカさんがすごいなあと思うのは、たんに「具体的なアクション」を起こしているからであって、もちろんその内容にもある程度の共感はするけれど、ナガオカさんのいう「ロングライフ」にも多少の違和感があるし、ロングライフの「ロング」、つまり長いあいだ、親しまれてきたもの、愛されてきたもの、こそが素晴らしいというときに、あまりに「長いあいだ」という歴史というか時間の積み重ねを信じすぎているようにも思えるからで、つまり「時間の淘汰」というものを理由に、ある視点にそぐわないものを全て抹殺する、ということにもなりかねないからで、もうひとつは「時間の淘汰」のもとに、現代に新たに始められる試みでさえ、熟慮なく不必要であるとされてしまう可能性もあるわけで(つまり、新たに始められる試みが「時間の淘汰」にさらされる機会を奪ってしまうということ)、そんなこと誰にできるというのだろうか。というのはもちろん試しにものすごく極端にしてみた、頭のなかの実験というだけで、そんな極端なことをナガオカさんが考えているわけでもなく、そもそもそんな極端なことにはならないだろうし、これだけ「人それぞれ」の時代にそんなこと起こり得ないだろうし、まずは「ロングライフ」の考え方自体が「時間の淘汰」にさらされるべきだと思うので、応援していますし、現代の私たちが始める新たな試みも等しく「時間の淘汰」にさらされる権利があると思うので、応援しています。というか、「時間の淘汰」と分かりやすく言ってしまうと、あたかもそういうものがあるかのように思ってしまうけれど、そもそも「時間の淘汰」ってなんなんだろうか。いまここで言っている「淘汰」って、自然のなかでの淘汰とは異なり、社会のなかでの淘汰であるわけで、そう考えたときに、社会のなかでの淘汰=最適化、と素直に考えることはできるのだろうか。かなり怪しい気がする。ナガオカさんのやっている「60ビジョン」がまさしくそういう社会淘汰で消えようとしているモノを現代に位置付けなおして復活させる、というプロジェクトなわけで、と書いてきてふと疑問が生じるのだけれど、社会のなかでの淘汰で消えようとしているけれど長いあいだ親しまれてきたものが「ロングライフ」デザイン、というときになんだか矛盾があるようで、これは単なる同語反復なのではないか、ということもできる。社会のなかでの淘汰がなされるにはある程度の時間がかかるわけで、だからこそ「時間の淘汰」とか呼ぶわけで、そうなると淘汰の条件として「長いあいだ」が必要になる。と書いて、キーボードを叩く左手を右手のあいだに置いたコップに入っているカルピスを飲もうと右手を動かしたら右手の親指がコップにひっかかりカルピスをこぼしてしまった。7月26日にもまったく同じことがあってhttp://d.hatena.ne.jp/k11/20080726 このときはコップに入っているカルピスが少なかったからまだ被害は少なかったのだけれど、今日はたくさん入っていたので、いま調べたら「DESIGN HOUSE stockholm」の「TIMO GLASS」というやつらしく、350ml入るらしい。→http://www.lbl.jp/catalog/table%20ware/tl-0032/tl-0032.html かなりふとももあたりにカルピスがかかってかえって涼しいくらいなのだけれど、ベランダに干していたさっき洗ったばかりの生乾きのタオルでとりあえずカーペットとふとももを拭いた。考え事に集中していると、身体の空間認識が甘くなるのか、右手がコップをうまくかわせなかった。はなしを戻すと、「時間の淘汰」の条件として「長いあいだ」が必要なのはさっき書いたけど、「長いあいだ」の社会的淘汰の結果消えようとしているものを「長いあいだ」親しまれてきた、として助けようとするわけで、これを同語反復にしないためには、「社会的淘汰」と「親しまれてきたこと」を別の相反するものとして考えないといけない。おお、ということは「ロングライフ」=「時間の淘汰(社会的淘汰)」というわけではないのだな、おそらく。ほうほう。そしたら問題になってくるのは、誰がどのような視点において、ある商品を「みんなに親しまれてきた」と判定するのか、ということで、ナガオカさんのように、「それは俺だ!俺を信じてくれ!」というふうに自分ひとりで責任をとろうとするよりほかない。誰も「歴史」そのものや「みんなに親しまれてきたこと」そのものにはなれないし同一化もできないし、だからこそ間違っているかもしれないけれどやるしかないのだろうし、間違っているかもしれないけれどやるしかないのはみんな同じだ。さっき外から今年の4月22日に書いた、「買うか買わないか、それが問題だ」の男子小学生(http://d.hatena.ne.jp/k11/20080422)の声とそのお友達の女の子のやり取りが聞こえてきて、たぶんお互いのあいだにある程度の物理的な距離があるらしく、大きな声で、もう6時やし行くよ!、いや待って!、でもさ!、でもさなんかいらんねん!とこの男子小学生は叫んでいて、なんでこいつはいつもこんなに切実なのだろうかと思った。