昨日は大阪駅環状線のホームに18時過ぎに着いて、着いた時点で少し後悔していて、ものすごく人がいるからで、内回りだったか、とにかく天満の方に向かう電車にみな乗り込んでいて、こりゃえらいところに紛れ込んでしまったしこれからさらにえらいところに紛れ込もうとしているのではないか、と思っていたらよなさんから電話があり、10分ほど遅れるとのことで、こっちも遅れるから、というような会話の節々からよなさんもまた後悔しているようなテンションだったけれども、ひとつ電車をやりすごして、天満で降りホームで待つ。3本目の電車でよなさん到着。天神橋筋商店街をすこし東に向かうもお金を降ろすために駅の方に戻ってコンビニへ。そして駅の近くの川口君に教えてもらってたまに行くようになった串カツ屋さんへ。ビールの大瓶2本と串カツ14本くらいとどて焼きとオニオンスライスで、合計2,200円。ビールはコップで3杯くらい飲んだ。これ以上は飲めない、こともないが、具合悪くなりそうで嫌だ。「我が、と書いたところで、厳密には「わが」を変換している途中に手を身体の方に引いたら、キーボードと身体のあいだ、右手と左手のあいだ、に置いていたコップを右手の指でひっかけてしまい、コップにすこし入っていたカルピスが机の下の方、右下に向かって飛んでいって、カーペットが濡れた。花火の音に誘われるように花火に向かってはみたものの、結局花火は見れずじまいで、花火に向かうよなさんの、花火を見る、モチベーションの高さに驚きつつも、途中のアーケードでみたうなぎつりは面白かった。たいへんくたびれたので、帰りは南森町から地下鉄に乗ろうとしたのだけれど、あまりに人の多さに梅田まで歩くことにして、途中のファミマでトイレに行き、ビタミンCの入っているスポーツドリンクを飲む。よなさんはエビアンとボスのコーヒーだかカフェオレだかどっちだったか。とにかくボス。それにしても「わが」を変換中に、右手を動かす用事がなにかあったのだろうか。まったく思い出せない。何をしようとしていたのか。カルピスをこぼしたことで完全に忘れてしまった。特になにもなかったのかもしれない。こういうのは辛気臭くて嫌なのだけれど、ここ何日かふと「自殺」の何がいけないのか、と考えていて、いまだによく分からず、とりあえず方向を変えてみて、なぜ生きる「べき」なのか、と考えてみて、やはりどうしても「べき」とまで言い切れるのはなぜかがよく分からない。そりゃ誰も「べき」だなんて強制していないのだけれど、強制はされずとも、すべてが当たり前のように生きることありきで進んでいるので、「ふつうは」語るまでもなく生きる「べき」なんだろうなあと判断せざるをえなくて、それが何故なのかさっぱり分からない。幸いにも私の周りで自殺した人はいない、というか、そういう情報は入ってきていないのだけれど、仮に、誰か親しい人が自殺したとして、なんで相談してくれなかったんだ!とか止められなくて悔しい!とか、そういうことはたぶん思わない。私にはその判断を受け入れて肯定してあげることしかできない。自分でそう決めたのならそれがいちばん良いのだと。かわいそうだとか残念だとか無責任だとか自分勝手だとか思うよりも、それでよかったと思う方が自殺者にとって嬉しいだろうし、というのは逆の立場になってみればそっちの方が嬉しいから。かわいそうだとか残念だとか無責任だとか自分勝手だとかいうのはいくらなんでも分かりきっていることで、あえてそれに反した自殺者にそんなこと分かっていないわけがないだろうし、そもそも無責任だとか自分勝手だとかいったところで、生きる責任そのものに耐えられなくなった人に向かって無責任だと言ったところで何の意味もない。生きる責任なるものを過剰に感じ取って苦しくなった人に向かって、生きることを放棄するのは無責任だ、と言ってどうするのだろうか。ルールを守っている人は、ルールを守らない人に対して、個々の事情に関わらず、無条件に厳しい。なんであいつだけ守らないのか、と。自分が苦もなく守れているルールを、守れない人がいるということ自体が理解できないのだろう、か。それはみんなそうか。別に自殺がいいとか思わないけれども、わるいとも思えない、というか、ショーペンハウアーの本に「自殺について 他四篇」というのがあるけれども、必ずしも自殺について、というわけでもないらしい。アマゾンのカスタマーレビューによると。訳者によるのか編者によるのか出版社によるのかは分からんけど、題のつけ方がまずいのか。と、「自殺とは」でググってみて出てきたサイトの検索にひっかかった箇所が検索ページに出てくるけれど、「自殺とは復讐であり、抗議であり、秩序の破壊である。」と書いている人がいるらしく(サイトまでは行ってない)、復讐・抗議・秩序の破壊とはまたみみっちいな、、と思う反面、まさしくそういう側面があると思う。それはすごくよく分かる。あと、生きる、とか、生きろ、とかいうときに重要なのは、「生きる」という抽象的な概念ではなくて、どう生きるかで、どう生きるかは、どこで生きるか、つまり、どのような状況で生きるか、による。生きてりゃいいことあるさ、というのは有名なことばであるけれど、ここにはその「どこで・どのような状況で」が抜け落ちている。生き辛いところで生きていてもいいことなんてありゃしないのではないか。そしてその状況から抜け出る術を持たず、抜け出るということすら思いつけずにいるほど追い詰められている人に向かって、ま、生きてりゃいいことあるさ、なんて口が裂けても言えない。というふうに考えると、個々の追い詰められた状況を抜け出す術を人々に与えることができれば、自殺はなくなる!と考えたくもなるが、そもそもそういう考えの前提にあるのは、生きる「べき」、生きることありきの思考であって、これはこれでポジティブでいいけれど、状況を抜け出す可能性に背を向けすべての可能性を閉じてしまうことについて考えることはできない。とりあえず、「生きる」って、楽しいとか楽しくないとか、いいことあるとかないとか、ではないようだ、というのは分かる。じゃあなんなのかという。いままさに生きているにも関わらず生きていることがなにか分からないが、生きる基盤にあるなんらかの状況を社会という「関係そのもの」だと考えると、生きるってなにかに関係することなのか。そしてそういう「関係そのもの」に耐えられなくなった人を救うのもまた関係することによってしか為されないのだろうか。自己と自己の関係、というのもあるし、関係ってやたらややこしいな。。さっきやってみた最新のブログ通信簿。京都って??そんなに話題にしたっけ?漫画原作者っていうのは変わらないんだ。あ、ブログ年齢が58になって父ちゃんの歳を超えてる。