本と屁爆弾(http://hontohe.exblog.jp/)2008年07月09日「大衆はなぜすべてのことに干渉するのか」(http://hontohe.exblog.jp/8272471/)を福居伸宏さんのÜbungsplatz〔練習場〕(http://d.hatena.ne.jp/n-291/)経由で知り、読ませていただく。反射的な○/×の意思表示の欲求。○/×だけを反射的に、というのがポイントかと。凡庸さの濫用・悪用。権利としてのアマチュアリズム?とはいえ、反射的な○/×であっても意思表示は意思表示であり、反射的な○/×であるからといって、その意思表示そのものが他人の評価に晒されることから逃れられるわけもないし、凡庸であることを正当化もできない。といいつつも、凡庸のいいところ・わるいところを考える方が先か。。あとなんとなく、いまって、なんでもかんでも自己表出の欲求に突き動かされているように思えるのだけれど、やっぱり屁爆弾さんのいうようにその源泉は虚栄心なのだろうか。いまのところそれしかないように思える。やっぱり虚栄心か。。なんなんだろうか。。私はあらゆる意味で素人であり凡庸であるけれど、反射的な言いっぱなしにはなりたくないな。。ハラスメントの連鎖もあらゆるところに見かけるし。いまアニマックスではこち亀がやっている。猫の毛はいつもふさふさだ。ドゥルーズが「記号と事件 1972-1990の対話」『Ⅳ 哲学「哲学について」』にて

私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに、意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです。

というとき、その強制する力は、ほかならない、私たちのなかからはたらいている。目的・欲求・欲望が、そもそもコミュニケーションに向かってすらいない、という事態。私自身についていえば、ものすごく閉じやすいというか常に閉じよう閉じようとしているのをひしひしと感じる。おそらく、閉じやすいどころではなく、閉じることを志向している。誰かから傷つけられたくないし誰かを傷つけたくないからなのだろうか。しかし、傷ついたり傷つけたりしない限り、閉じることから逃れられない、というジレンマが。なんというか、ある程度、鈍感になる必要がある。ということを渋谷慶一郎さんも書いていたような。→http://www.atak.jp/diary/2008/05/28.html