きのう書き忘れたことに、新大阪から博多までの新幹線のなかの後半で、弁や民の、ベンヤミンの「翻訳者の課題」をざざっと再読して、ベンヤミンとの問題意識の共有がうまくいかずよく分からないところもあるけれど、解釈や意味付けという、なんらかの対象に(個人的であれ社会的であれ)価値を見いだす、ということをいったん「翻訳」としてみるとなにかありそうな気がして、ベンヤミンはそんなこと書いてないのだけれども。しかし少なくともベンヤミンは翻訳を単なる置き換えとは考えていない。原作と翻訳のあいだに相互作用があると。いや、こう書くと正確ではないようで、翻訳という作業のなかに置き換え以上のなにかがあるということかもしれない。異なる言語に入り込み、異なる言語に入り込まれる。ベンヤミンが「翻訳者の課題」のなかで引用しているルードルフ・パンヴィッツ「ヨーロッパ文化の危機」の一節のそのまた一節を孫引き。

翻訳者の基本的な誤謬は、自身の言語を多言語によって力づくで運動させることをせずに、自身の言語の偶然的な状態に固執しているところにある。

この一節の「翻訳者」のところを、解釈や意味付けという、なんらかの対象に(個人的であれ社会的であれ)価値を見いだすひと、つまり一般的にいう「受け手」に変えてみる。受け手は自身の言語、すなわち自身の価値観、つまり自分の思う自分の価値観、もっといえば自分の思う自分が持つべき理想の価値観、に固執しすぎている。ということは送り手もまた受け手であることを考えれば、すべてのひとが縛られている。どうしよう。とはいえ、私はあるひとつの理想を語っているわけではなく、理想的な受け手というものがあるとすれば、それは、すべてを送り手の思うように(意図通りに、狙い通りに)受けとる、どこまでも受動的で従順な受け手であるだろうし、たぶん私が語っているのは理想なんかではなくて、たんにそういう縛りありきで考えるならば、すこしはなにかが変化するのではないか、ということで、それを理想というなら理想かもしれないし。とはいえ、多言語の存在は認めてもそれを理解しようとしないのでは意味がなくて、様々な意味において理解を超えたなんらかの対象に対して「まあこんなのもあってもいいんじゃない、人それぞれだし、面白いとは思えないけど」とかいうふうに自分に納得させるよりも、強引に自分の言語に翻訳してみた方がいいのだと思う。強引に面白いと思おうとする方が創造的だ、たぶん。対象から受けたのが違和感や嫌悪感だとしても、そのひっかかりをずっと持ち続けることの方が創造的だ、たぶん。「自分の価値観」に照らし合わせて「つまらない」って言うのは考えなくてもできる。思考を経由せず反射でできる。もちろん、あらゆるすべての対象から受けること・受けるであろうことまで含めて受け入れ続けることは不可能だけれど、一個の人間が触れうる範囲でなら可能だと思う。本当は「面倒くさいから」なのに「面倒くさいから」と意識されず、別の理由をつけて処理されていることがかなり多いような気がする。んん、書いているうちになにかずれていっているような。。似たようなことはいままでさんざん書いているけれど、こういうことを送り手(つくる側)の立場から言うと「理想的な受け手」なるものを想定した考えになるし、したがって、現在の受け手はなっとらん!とかいうことになるし、そうでなくてもそういうふうにとられる可能性が多いにある。なのでどっちかというと受け手の立場から言いたいのだけれど、結局は同じことで、自分のことは棚に上げて誰か見ず知らずの人たちに向かって苦情を申し立てているようになる。思考や判断やなんやかやがその都度ひとつの立場において為されることの方がおかしいのかもしれない。送り手の立場で考えるとか受け手の立場で考えるとか、そういうどっちかで考えるということそのものが。双方の立場を思考の度に移動するにしても、切り替えと並列処理は違うだろうし。いまアニマックスでは攻殻機動隊スタンドアローンコンプレックスっていうのをやっていて、最近ツタヤのカードをつくって攻殻機動隊の映画をいくつか観ていて、なんやったか、押井守監督のいちばん最初のやつとその続編イノセンスとアニメシリーズの映画の個別の11人やったかそういうのとソリッドステートソサエティっていうのも。高校の時にビデオを借りていちばん最初のを観たけれどさっぱり記憶になくて、あるのは最後のシーンの記憶だけで、いま改めて観ると非常に面白いけれど、押井監督のは漫画に比べてクール過ぎるというかずいぶん堅い印象。あと、個別の11人やったかそういうので、電脳化された人間の記憶データをサーバーに移す!とかいっていて、記憶と記録(データ)の違いはなにか?と思う。記録が役に立つのはなにか目的があるときだけで、つまり検索などによって、あるひとつのワード(つまり観点)によって情報が秩序付けられるときだけに記録は役に立つ。記録情報は呼ばれない限り出てこないが、記憶情報は呼ばれなくても出てきたりする。正確には情報が呼ばれて出てくるためのトリガーの次元の数が違うと言うべきか(記録はことばによるインデックスが必要だし、したがって呼び出しにもことばが必要になる。そういう部分ではたしかに記録と記憶は似ている)。あと、記録には串というか軸が必要だが、記憶には必要ない、のかもしれない。記録情報同士が繋がるのは、後から与えられる串というか軸、観点・視点によってであって、記録情報同士から串というか軸、観点・視点それ自体は生まれない。記憶にはそういう受動性はなくて、意識外(つまり串というか軸、観点・視点の外)で勝手に繋がり、串というか軸、観点・視点それ自体を生成する、ときもある。ような。